December 30, 2010

象牙海岸から見る、民族と国家。

11月に行われた象牙海岸(Ivory Coast)の大統領選挙の結果が混乱して、まだ収束してません。選挙は現職大統領のバグボ(Gbagbo、グバグボとも。日本語での表記は確定していない)候補と、元首相のワタラ(Ouattara)候補の間で戦われたんだけど、同国南部を支持基盤とするバグボ候補(=選挙時点での現職大統領)は北部地域(ワタラ候補の支持基盤)の投票には不正があったので無効であるとしてその部分を除いた選挙結果を元に勝利宣言。ワタラ候補側は、全土の選挙結果を見れば当然ワタラ候補の得票数が多いとしてこちらも勝利宣言。どちらも引かない状況となってます。

国際選挙監視団、アフリカ連合、国連、欧州連合等は、選挙に際し若干の暴力は見られたものの、ワタラ候補側が勝利したと認めて、ワタラ候補側が任命した大使を正式な大使として認める、といった対応を取ってます。でも、バグボ候補側が引く気配がなく、二人の大統領が存在したまま内戦の恐れも出て来ています。象牙海岸に基地を持つフランス軍は、同国に滞在するフランス人に対し、「予防的措置」として国外待避を要請しているとの情報もあるようです。

象牙海岸は元々北部と南部で民族的、宗教的な差があります。それに加え、隣国で世界でも最貧国の部類に入るマリやブルキナファソの人々が、カカオの産地であり相対的に豊かな象牙海岸の北部に流入していて、南部の象牙海岸人が「北部の人間は純粋な象牙海岸人ではない。」と主張する要因となっています。(ちなみに、ワタラ候補自身も両親がブルキナファソから象牙海岸に移住しており、かつイスラム教徒。)

バグボ「大統領」は、南部の象牙海岸のアイデンティティを強調し、メディアを統制して「南部人こそ象牙海岸人、北部人はよそ者」という民族主義的な主張を広め、ポピュリズム的手法で南部象牙海岸人の支持を得ているといいます。

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国内に異なる民族集団がいるという状況は日本人には想像が難しいものがありますよね。日本は民族、言語、国土の領域が一致する国ですが(って言うと、アイヌや在日朝鮮人の話を持ち出して批判される向きもありそうですが、で、確かに無視できない論点ではあると思いますが、他国と比較して大枠で見れば「ほぼ」民族、言語、国土が一致しているとして、今は話をしても構わないでしょう)、世界的に見れば、そういう民族、言語、国土が一致するという国の方が少ないというのが現実です。アメリカなど新大陸の国々は言うに及ばず、中国、ロシア、インドなどの大国、中東欧の国々にも多民族、複数民族の国家が多数です。ドイツ、フランス、イタリアなどは比較的、民族、言語、国土が一致しているようですけど、イギリスは「連合王国」って言ってるくらいで、よくみれば「連合王国人」よりもスコットランド人やアイルランド人としてのアイデンティティが強い人々が多そうです。

そういう国内に複数の民族を抱える国を国として運営して行くには、国民統合の施策が必要になります。日本にいる人に「あなたは何人ですか?」と聞けば、自民党の人でも共産党の人でも「日本人です」と答えることに何の疑問もないでしょうけど、世界にはそうでない国が多いのです。「クルド人でトルコ人」、「キクユ族でケニア人」、「パレスチナ人でヨルダン人」、などなど、国籍を有する国と、民族的アイデンティティが必ずしも一致しない場合が少なくない(「族」という表現は差別的だと批判する人もいるようですが、慣用的に使われてきた表現で特に差別的含意を持って使っているわけでもないので、そのままにしておきます)。そのため、世界の国々には国民意識を根付かせる仕掛けが必要になっています。「日本人が日本人であると自覚するための仕掛け」といっても、民族、国土、言語が一致していることを目の前にすればあまりに当たり前過ぎでピンとこないですけど、まあ強いて言えばそれは日本書紀や古事記に始まる建国の神話であったり、天皇家の存在あったりするわけです。それがたとえばアメリカであれば建国の精神とその権化である合衆国憲法、そして星条旗と大統領が「アメリカ人であること」の拠り所です(「英語」はアメリカ人であるところの要件かというのは、ヒスパニック系住民の増加という現実を見ると、これはまたこれだけでひとつの議論ができそうです)。また、たとえばタイ。純粋なタイ族っていうは実はそんなに多くなくて、中華系のルーツを持つ人も少なくないんだけど、1930年代に「タイ人化教育」をかなり徹底的にやってる。学校での中国語教育の禁止とかまでやってますよ。それに王室という象徴を戴くことによって、「タイ人」が「タイ人」として自覚することを当たり前とする国を作り出してます。

インドネシア、ジャカルタの中心にある独立記念公園に行くと、立派な記念塔を備えたモニュメントに独立記念博物館があります。あれこそは、「インドネシア人」としての国民意識を育む教育の象徴じゃないでしょうか。そもそもインドネシアという国のあるところは、古くはシュリーヴィジャヤなんかがあってスルタンや地域の伝統的指導者がそれぞれの島や圏域を支配していた地域だけれども、最終的にはオランダ支配の領域が「国」として独立したものであって、そこに住んでいる人々に「インドネシア人」という自覚なんてなかったわけです。だいたい、「インドネシア」という呼称自体がヨーロッパ人目線の言葉ですしね。だから、「国」として独立しても、放っておけば遠心力でバラバラになってしまうのも必定、っていう感じの国なわけです。現に東ティモールは分離しましたし。インドネシア人に自らをインドネシア人と自覚させるためにはそれなりの仕掛けが必要であり、それは建国神話であり、独立の英雄であるわけで、その象徴があの独立記念公園ですよ。「あなたがたの祖国はインドネシアである。」、そう自然に感じられるだけの物語が必要だったのです。この「インドネシア人」の国民教育を進めたという意味でも、スカルノはインドネシア「建国の父」と呼べるでしょう。

タンガニーカの大統領であり、その後ザンジバルと合併してタンザニアの初代大統領となったニエレレ(Nyerere、ニェレレ、ナイレレとの表記もあり)もまた、「タンザニア」の国民教育を進めた人物でした。自身はザナキ族の出身であったものの、民族間和平、タンガニーカとしての独立を主張し、今の「タンザニア」という国の形を決めたと言えると思います。

これと対照的なのがケニア。初代ケニヤッタ大統領は独立以来、西側寄り資本主義体制を堅持してケニアに経済発展をもたらしたんですけど、「ケニア」という国というよりは同国で多数派のキクユ族にその支持基盤を置き、なにかにつけキクユ族を優遇しました。ケニヤッタ大統領の死去に伴い就任したモイ大統領、そして政権交代よって大統領の座を得たキバキ大統領も政権ではキクユ族を重用しています。現在でも、ケニアの人々に自身のアイデンティティについて尋ねると、「ケニア人」と答える人は半数しかいないという報告もありました。多くの人が「ケニア人」である前に、「キクユ族」「ルオ族」という部族をアイデンティティとして自覚しているということです。ケニアでは2007年年末に行われた大統領選挙後の混乱、暴力沙汰が記憶に新しいところですが、これはキクユ族(キバキ大統領)対ルオ族他その他部族(オディンガ候補)という側面が強く、これまでは好調な経済によって覆い隠されていたものの、実はケニアという国家の統合があまり進んでいないことを露呈したように思います。

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話を戻して象牙海岸の話。「象牙海岸」という国家ではなく、南部の支持層だけを基盤として北部を異端視するバグボ大統領の政権下で国民統合が進んだとも思えず、どういう展開になるのか気になります。国際社会はバグボ大統領の退陣を求めていますけど、これ以上の流血の事態を避けるためには、ケニアやジンバブエで行われたように、両陣営に政権入りさせて連立政権を組ませるというオプションも模索されるでしょう。

ニエレレやスカルノの例を挙げて、国民統合の推進を紹介してみましたけど、別に無理矢理「○○人である」と認識させるよう洗脳を進めるのが望ましいと言ってるわけではなくて、民族ごとの自治権の拡大と中央政府の役割のバランスを取ることで国家、国民の統合を進める、連邦制的な方向だってあるわけです。あるいはスーダンのように、選挙によって国を分割するかどうか決める、という選択をしたところもあります(2011年1月にこの件を問う住民投票が行われます)。

今日明日に片付く話ではないですけど、民族と国家の関係を考えると、象牙海岸でどういう統治が模索されていくのかとても興味深いものがあります。

December 15, 2010

コペンハーゲンに行ってきました。


出張でコペンハーゲンに行ってきました。デンマークの首都です。出張の用向きは脇に置いておいて、デンマークの話がいろいろ面白かったので備忘録がてらにメモっておこうと思います。特に賢いことや鋭いことを書こうというわけじゃなくて、ただデンマークの話。

まず、デンマークはヨーロッパでもかなり北、スカンジナビアに入ります。コペンハーゲンからスウェーデンのマルメまでは橋がかかってて、車で45分くらいで行けちゃうんですね。デンマーク側の方が付加価値税25%、物価も若干高いらしく、マルメに買い物に行ったり、マルメに住んじゃったりしてる人もいるそうで。

デンマークの人口は550万人くらい、在留邦人は1500人くらい。デンマークという国はクリスチャン4世という王様が建国した国で、基本的に商人の都市国家の性格が強いみたい。現在でも世界最大の海運会社・マースク(Mærsk)の本拠はコペンハーゲン。そういえばこの「Mærsk」って「MAERSK」っていうロゴの入ったコンテナの会社だよね。よく見かけるけど、あれってコペンハーゲンの会社だったのです。

コペンハーゲン、古い町並みが美しいのですが、それにはいくつか理由があるようでした。

まず、第二次世界大戦であまり焼けてない。ドイツに侵攻されたとき、数時間で降伏したそうです。勝ち目がないので無駄な戦いを避け、ドイツ占領下で戦時経済を生きることを即座に判断したそうな。いかにも商人らしい発想です。なので、古い建築の保存がよい。そして、国が古い建築の保全を行っている。新しいビルを建てるのはともかく、古い建物は潰させない。リノーベションして別の用途に使わせる。そしてそれがすごいいい感じなんですよね。元港湾倉庫の会議場とか、基本構造は木造なんだけど、現代の建築にはない贅沢な材料を使っていて、洒落てるんです。

聞けば、古い建築を維持するのに、固定資産税の減免、歴史的建造物管理費の徴収、リノーベションが必要になったときの補助金など数々の制度があるらしい。

そして、古い建築でも天井が高くて窓が大きい。日光が貴重なほど緯度が高いので、昔から窓を大きく造ってたんですと。地震もないので、そういう設計でも大丈夫です、とのこと。で、その窓から部屋の中が丸見えの家が多いんですが、窓辺に趣味良く観葉植物やランプシェードが置いてあって、白熱灯の暖かい光が外に漏れてくる。なんだか余裕を感じる。

街を歩いていると、道路よりも低い位置、半地下に部屋がある建物が多いので、なんでこんな建築なのか聞いたんですよね。で、説明によると、コペンハーゲンの街は厚い砂の層の上にあって、ほとんどの建物は基礎の柱が岩盤までは達してない。なので、建物が数百年をかけて砂地にゆっくり沈んでしまってるんだって。少し沈むごとに建物全体が平準になるように手を入れるので、特に問題はないそうです。

国民性。商人の魂が息づいているらしい。デンマーク人は就職してからリタイアするまで、平均して6回くらい転職するらしいですけど、転職は普通のことで、転職が多いのは望ましくない、という偏見もなければ、「キャリアアップだ」というガツガツしたところもない、だそうです。なんでもうまい仕組みを作るのが上手で、長時間労働しているわけでもなければ、ギリギリと根を詰めて働いている風でもないのに、なんとなく仕事が上手く回るように整えられていることが多い、と、コペンハーゲン在住の日本人が言ってました。

空港やホテルや仕事上で出会ったデンマーク人ですが、なんというか、さらっとした印象。満面の笑顔で精一杯暖かくお出迎え、という感じでもなく、といって無愛想でもなく、もちろん隙あらばカモにしてやろうというようなアグレッシブさがあるわけでもなく。個人的にはとても気持ちのいい人たちだと感じましたよ。特にアフリカくんだりから来ると、「洗練」を感じました。

先進国のご多分に漏れず、少子高齢化の波には見舞われているらしいんですけど、合計特殊出生率は1.8くらい。1.3とか言ってる日本に比べるとかなり高い。人口550万人と小回りの効くサイズで、しかも「うまい仕組み」を作ることに長けているいるので、年金制度とかもあんまり深刻なことにはなっていないそうな。付加価値税が25%と非常に高いのも、その税収がどう使われているのか国民に見えるサイズの国なので、それでも国民が納得するんでしょうね。

私が滞在した間は寒気の流入が止まっているとかで、一番寒くても気温マイナス2℃くらいだったんですけど、北極方面から寒気が流入すると4時間で15℃下がって一気に氷点下10℃以下になる、というようなことも割と普通に起こるそうで、デンマークの子どもたちは幼い頃から寒くても外で過ごして寒さへの対応を身につける、なんていう話も聞きましたよ。

東京に比べると随分小さな街で、エキサイティングさには欠けると思いますけど、それなりに楽しく暮らせそうな街だ、そんな風に思いましたとさ。

November 28, 2010

辺境の国・日本の、押し付けない国際協力。

原研哉氏の「デザインのデザイン」という本を読んでいたんですけど、この部分が非常に印象に残ったんです。ちょっと長いですが、引用してみます。

「東京は好奇心の旺盛な街だ。世界のどの都市よりも他の文化から情報を集めることに熱心である。そしてそれらの情報をていねいに咀嚼して、世界に起こっていることをリアルに理解しようと勤勉な知性を働かせている都市でもある。自分たちの立っている場所が世界の中心ではない、そしてそもそも世界に中心などないのだという意識がその背後には働いているような気がする。だから自分たちの価値観で全てを推し量るのではなく、他国の文化の文脈に推理を働かせつつそれを理解しようとする。」(p.155)

もうひとつ、内田樹先生の「日本辺境論」。これもちょっと引いてみます。

「日本という国は建国の理念があって国が作られているのではありません。まずよその国がある。よその国との関係で自国の相対的位置がさだまる。よその国が示すヴィジョンを参照して、自分のヴィジョンを考える。」(p.38)

ちなみに、内田先生は日本人がこんな「辺境性」を持っていることを別に否定的に書いてらっしゃるわけじゃないです。ただ「そういうものだ」と書いておられる。また、この本では、梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」を引用していて、それは以下のとおりです。

「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している。一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。」

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これね、海外で生活しているからかもしれないですけど、実感としてこのとおりなんですよね。有史以来、日本は中華であったことはない。常に辺境であり、辺境としての国民性をもって強かに生き残ってきたんですから、自ら世界に範を示すことが生来的には身に付いていない。別にいいとか悪いとかいう話じゃなくて、そう。

ミクロの現場では、「べき」論を以て雄弁に語る欧米人を前に、気後れすることも多いです。しかし、私の英語力の問題もありますけど、英語力が十分だったとしても、ああいう風には語らない、語れないことが多いなと思うこともしばしばなんです。常に、周りの考えを見て、自分の考えを検証している自分がいます。

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日本の国際協力事業の現場に携わったことがあるんですが(今も携わっていますけど)、日本の国際協力の特徴に「要請主義」というのがあります。原則的に、相手国側から「要請」されたものに対して応えるという方針です。こちらから押し付けない。あくまで相手国側の考えを尊重して、「うちの国の開発にはこれが必要なので協力してください」と要請されたものについて協力を検討するという原則があります。

もちろん、「おたくの国の発展にはまずこういうところから手を付けるべきなんじゃないですか」と日本側から提案して、最終的に相手側に要請させるということも少なくないので、いつも「ご用聞き」だけをやっているわけじゃないですが、原則は「要請主義」です。また、これは「ownership」の強調という日本の支援の特徴も同時に説明しています。すなわち、日本はあくまで「支援」「協力」はするけれども、事業の主体はあなたの国なのですよ、プロジェクトはあなたの国が実施したいとして日本に支援を要請しているから日本は支援するだけですよ、という「当事者感覚」を強調することにつながってます。相手国側が自分で考えて必要だと思って要請してくる、その事業は相手国のものです。日本はそれを支援する。

押し付けないのです。相手国の言い分を聞く。相談に乗る。その上で助言する。開発途上国には自国の開発課題について取り組む政策や事業計画を策定する能力も覚束ないところも多くて、まともな要請を出すこともままならないという国も多いので、まず相談に乗る、ということも少なくないです。結果として、事業開始までにやたらに時間がかかることも少なくないですけど、事業計画の形成段階から、相談に乗って議論を導くところから援助が始まっていると見ると、時間がかかるのも仕方がないなという面もあるんですよね。

で、なぜいきなり日本の国際協力の話をしているかというと、この日本の国際協力の特色も、自分たちの価値観を絶対のものとしない、どこか別のところにヴィジョンがあって他所様のヴィジョンに照らして自分のアイデンティティを確認する、という日本人の特色が非常によく反映されているシステムに見えるからなんですよ。途上国とはいえ、相手国の考えには耳を傾け、一緒に考えてみる。既成の「正解」を安易に持ち込むようなことはとりあえずしない。

欧米諸国による国際協力事業は、パッケージを持ち込むようなものが多いんです。エイズ対策はこう、水・衛生問題対策はこう、食料支援はこう、という、すでにデザインされて出来上がった事業計画を持ち込むことが多いように見えます。これが定石、正しい対応というもの用意してきて現地で指導し適用する形態です。さらにキリスト教系の援助団体ともなると、自分たちの価値観まで一緒に広めようとしたりして。自分たちの範に従えばよろし、という中華な空気が感じられることも少なくない。

そういう欧米式の援助も効果は高いです。特に即効性が高いことが多い。日本の支援がいつまでも始まらずだらだらしている間にバンッと資金と人とを投入して成果を上げる局面も何度も見ました。

それもよい。否定はしないし、ひとつのやり方だと思う。でも、相手国側の文化的文脈に合致していなくて、一時の成果だけで長続きしなかったり、時に傲慢に感じられたり、あるいはたとえば「民主化の支援」のような政治的に敏感な分野では原理的主義的な危うさも感じたりする。

世界の先進国、援助国による援助事業は、みんなそれぞれに個別の事情、特色を持っていますけど、日本のODAも例に違わず「要請主義」「ownership」で代表されるような独自色があります。上記で引用した識者の方々の日本、日本人の特徴についての評を、人の顔色ばっかりうかがって情けない、という風に見ることもできるでしょうが、好意的に解釈すれば、相手のことをよく考えている、ということです。日本の国際協力にも、その特徴がよく反映されているように思うのです。

まあ、実際の現場には、さらにさまざま事情があって、ここで書いたようにすっきり「日本はこう、欧米はこう」と割り切れないことも多いですけどね、実は。

November 15, 2010

「頭がいい」と「物知り」

「ソーシャル」なサービスが興隆したこともあって、従来型のマスコミに頼らずに現場の情報が入手できるようになりました。当事者の弁が聞けるようになったし、マスコミの舞台裏も見えるようになりました。

twitterだのなんだのっていうツールを活用していると、アフリカの当地のようなネット接続環境が悪くて動画なんかのリッチコンテンツの閲覧が難しい場所にいても、世間で、社会で、世界で起きていることについての最新のニュースやその当事者の弁、さらにそれについての専門家の分析から識者の評価、一般の人々の反応まで見ることが出来る。

一時情報に近いところに誰もが立てて、興味のあることについては深入りして調べることもできる。機械が手足の能力を拡大し、自動車の普及によって人の移動能力が拡大したのと同じように、ネットによって人の目や耳といった感覚器の能力が拡大されたような感覚です。

ただね、毎日、たくさんの情報に接して、そのそれぞれの事象にすでに多くの人が多くの意見を述べ、分析し、評価をしているのを見続けると、それじゃあ果たして自分はどう考えるのか、ということに結論を出すのが随分難しくなったように思うんです。

「それもそうだ。」「そっちの言うことも一理ある。」「でも現実はそうだよね。」「やっぱりおかしいんじゃない?」

みんなもっともらしくて、「私」の意見はどうなのか決めかねる状況が増えているような。

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なにかの計画を立てたり、なにかについて論説したりするときに、手元に資料を集めて机上で検討しているときには、思い切った結論を述べたり、立派な理論を主張したりできるのに、その現場に行って生の声を聞いて現実を深く知ってしまうと、途端に歯切れが悪くなるというのは何度も経験したことがあります。「そうは言っても、これが現実だからねぇ。」「お言葉ごもっともだけど、でもさぁ。」そんな感じです。

現場にいる人々に対する情に流される、というのも多分にありますけど、机上で考えていたときには見えなかったことが見えてきて、考慮に入れるパラメーターが増えて判断が難しくなる、という感覚ですね。

ネットが社会のプラットフォームとしてこなれたものになってきて、これと同じ感覚を覚えます。机上、というか端末の前に座ってしまうと、現場に行っていなくても現場に近いところからの声が聞こえる。さらにそれに対する多くの意見も聞くことが出来る。

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ネットの普及によって、だれでも擬似的に現場を見ることができる。少なくとも現場に近いところの人の声が聞ける。これは素晴らしいことだと思うよ。でも、他方では今まで以上に「私」の判断力が試されているように思います。

「じゃあ、あなたはどう考えるのか。」

たくさんの情報が入手可能になった分だけ、パラメーターが増えた分だけ、考える力がシビアに試されるようになったよね。

「考える力」「賢さ」、さらに言い換えれば「教養』「英知」っていうのは情報や知識を溜め込んでいるのとは違う。情報や知識を持っていることは前提条件で「考える力」っていうのは次元の違うことだっていう、当たり前のことを改めて認識しています。


と、ごにょごにょ御託を並べてますが、要は「頭がいい」と「物知り」がイコールではないってことは、ネット社会になって一層痛感させられるよね、って話です。

November 12, 2010

18世紀以来の外交の変革期、かも?

もう議論も出尽くした感がありますね、尖閣諸島沖の海上保安庁巡視艇と中国漁船の衝突の様子を収めた動画がYouTubeで流出した件。

で、それに関して、なんら目新しい答えや意見を出せるわけではないんですけど、ただ、今回の海上保安庁の動画流出の騒ぎを見ていて、政治や外交の世界も、ネットの世紀になって新しい時代に入りつつあるのだなぁと感じたりなんかしてるので、ちょっとだけその感想を書き残しておこうかと。

外交ってさ、古くは国王とか皇帝とかの専権事項で、要は王様が使節を送って外国と物事の調整をする作業だったわけでしょう。成功も失敗も最終的には王様自身の威信の問題で、王様の責任だったんですよね。そこで民が意識されることは少なくて、国家を体現する王様とその取り巻きや貴族達だけが情報を独占してた。民は戦に駆り出されるばかり、って時代だったはず。

ところが、18世紀頃から今風の議会政治が成立する国が出て来て、民主制、議会制民主主義の国が出て来た。外交は政治を通じて間接的に民の信託を受けた外交の専門家が行うようになった。で、この時代から新聞というメディアも発達してきて、主権者たる国民も、曲がりなりにも情報に接することができるようになってきて、「情報を持った民がいて、少なくとも建前上は最終的には彼らが決める」という新しい環境を前提とした、現代にまで続く外交の手法が構築されていったんですよね。もちろん紆余曲折があり、様々な問題や失敗も経験してるんですけど、外交の秘密保持と情報公開のバランスとか、政府と外交官と新聞の関係のあり方とか、民主外交に必要なノウハウや経験が積み上げられていったわけです。

そしてラジオ・テレビの時代がきた。新聞より速報性があり、民に対する訴求性も高いメディアなので、またそこでも外交の新しい方法論が積み上げられていったんでしょう。が、しかし、それは新聞というメディアとの付き合い方の延長線上にあったように思います。新聞より速い、新聞より情報量が多い、という違いはあれど、情報の流れ方には基本的に違いはない。そう、「マスメディア」であることには変わりない。

ところが、ネットの時代は本質的に新しい。政府と外交官とマスメディアの3者の間で培われた枠組みの外側に、まったく新しい情報のルートができつつあるんだと思うんです。だれしもが新聞やテレビの力を借りずに情報を拡散する力を得て、この3者のコントロールの及ばないところで情報が大々的に流れるようになってますよね。Wikileaksも、公安情報の流出も、海上保安庁の動画流出も、今までとは全く違う情報の流れを作っている。従来型のマスメディアの枠外の話になってる。

確かにすごいことになってきたんじゃないですかね? 封建時代の外交から近代外交に移り変わった18世紀以来の大きな地殻変動のような気がしているんです。「外交と情報」という視点から見ると、18世紀初頭以来の、2、300年ぶりの新局面じゃないかと。国民主権と言いながら、選挙の時以外は観客に過ぎなかった市民が、ネットというプラットフォームの上にソーシャルメディアという情報空間を得て、政治と外交とマスメディアという既存3者が300年安住してきた心地良い空間を激しく揺さぶっている。そんな感じがするんですよね。

だったら、この新しいセットアップのもとでの外交はどうあるべきなのか。情報のコントロールはどうあるべきで、どういう風な政治が求められて、市民にはどんな教養が必要とされるのか。私には今のところはなんの回答もないんですが、ただとにかく、私たちは新しい地平に立っているんじゃないかなー、すごいことになってきたなー、というのは実感するんですよね。

October 30, 2010

空港のセキュリティチェックの目的は?

British Airways のCEOが公式の場で、空港での飛行機搭乗前のセキュリティチェックは意味がないのが多い(redundant)じゃないか、と発言したら、BAA(イギリスやイタリアの空港を運営する会社)の社長も「そうだそうだ」と同意したという話。少なくとも、

・靴を脱がせる
・パソコンを鞄から取り出させる
・液体の客室持ち込みを禁止する

というのは、余計だと言ってます。そんなことしなくても危険は十分に検出できるんですと。さらには、「これらの検査はアメリカに押し付けられてやってるのに、アメリカの国内線ではやってないところもある。」とも言ってます。で、液体の件については2013年には機内持ち込み禁止を撤廃する技術的準備が整う、とも。

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思えば、空港のセキュリティ検査が厳しくなったのはアメリカがブッシュ政権だった頃、9.11の後に以前にも増して厳しくなっていきました。

当時、ブッシュ政権はしきりに国民に、世界中に、危機だ危険だ脅威だと訴えまくってました。入国審査で写真を撮ったり指紋を採ったりしないと危ない、街中に監視カメラをつけないと危ない、危険人物はグアンタナモに隔離しておかないと危ない・・・。

実際、9.11が起きてしまってたわけで、危ないと言われれば否定できないし、説得力もある。

・・・でもこれって、統治する側からするととても便利な手法なんですよね。都合の悪いモノ、コトに対して、強制捜査とか諜報とか身柄拘束とかをやり易くなる。実際、ブッシュ大統領はアフガン侵攻について白紙委任状を議会から取り付けたしね。で、国民は安全のためなら仕方ない、と思うし、積極的に協力さえする。

アメリカの産業のかなりの部分を占める軍産共同体にとっても、市場を拡大する追い風になる。戦争に及ばなくても(実際には及んだんだけど)、様々な治安維持、軍事関係のデバイスが売れる。予算も取れる。

そして何よりも、外部からの脅威に立ち向かわなければ、というときにはアメリカ人は大統領の元に団結する。国家の危機に際して、大統領に反対することは難しい。大統領の支持率にもプラスです。

んなもんだから、あの政権は国民が、世界中の人々が、危機の瀬戸際に立っているのだと信じるように、折に触れて人々を脅していました。まあ、実際にまったく安全な世界に生きていたわけではないですけど、実際の脅威以上に戦略的に人々に恐怖感を忘れさせないよう努めたように見えますよね。「そんなに危機が迫ってるの?」なんてとても口にできない空気を作ってた。

空港のセキュリティチェックはその手段として一番使い易いものですよ。テロの脅威があるのだ、危険なんだということを忘れさせないため、検査を煩雑に、厳しくしていく。パソコンを取り出せ、スーツケースはカギをかけるな・・・。そうすると、みんな空港を通るたびに、世界は危ないのだ、脅威に満ちているのだ、と再確認させられる。ホントはどれくらい脅威に満ちているのか分からないし、一般人には知りようもないんだけど、そうやって「テロの脅威、危険、危険」と刷り込まれていく。


今回のBAのCEOの発言は、やっとその呪縛が解けたというか、なんかおかしいんじゃないの?っていうことがやっと言えるようになった、ということなんだと思うんですよ。みんな、鬱陶しいなぁと思っても、「安全のため」と言われれば反対のしようがない。検査を厳しくすることには賛成できても、緩和については口を開きにくい。それがやっと、冷静に考えたら無意味なんだから止めてもいいじゃん、と、当事者がやっと発言できた。そういうことかと。

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なんて考えてたら、国際ニュースで「イギリスからアメリカに向ってる飛行機にイエメンからの不審な荷物が!」なんていうニュースを速報で流している。どこまで本当なのか、どのくらい取り越し苦労なのか知らんけど、BAのCEOの発言を牽制するようなタイミングの良さ。

なんだかなぁ。

September 04, 2010

無謬を求め過ぎるのも大概にしよう。

遅ればせながら、引き続き高齢者行方不明問題の件。

この話でも気付いたのは、すべてに無謬を求める風潮が根強いことですよ。すべての戸籍が完全で、すべての国民の所在が確認されていることを求めるような報道が多いです。

無理だって。

1億2千万の国民の記録が全部完全に押さえられると思う?そんだけあれば、いろんな例外や予想だにしない人生を送ってる人もいるはずで、それを全部完全に確認しておくべき、というのは、原理原則としては正しくても、実態面では無理があるよ。

いや、もしかしたら可能かもしれないけど、可能にしようとすれば、今度はものすごいコストがかかるはず。役所の人が半年に1回国内すべての世帯を巡回して確認する、とかやったら、今の公務員の数では到底無理で、そのための費用は膨大になるよ。数万人だか数十万人だかに1件の記録の不備をなくすためのコストとして正当化できる金額ではないはず。そのくらいの記録不備は、望ましいことではないけれども、許容しておかないとしょうがないでしょう。

コストと便益の競争ですよ。どこまで完全を目指すか、その場合にかかる費用はいくらか。そのバランスをとって、最も便益の高くなる妥協点を見つけなくては。少なくとも、コストをかけまくって無謬を目指すことは正しくない。

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この手の無謬信仰って、けっこう見かけるよね。

たとえば麻疹の予防接種。何十万人に一人だか、予防接種による重篤な副作用が出たということで、それに対する批判に抗しきれず、予防接種自体を止めてしまった。結果、大人になって重い麻疹に罹る人が出てきたり、麻疹が流行して大学が休学になったり、外国から日本が「麻疹汚染地域」と看做されてしまったり。その社会的、経済的損失は、何十万に1例という副作用を避けるためだったとして正当化できる?私はできないように思うんですけど。タミフルの件も似たような話だったよね。


駅のプラットフォームにドアを付けるという件なんかも。プラットフォームから落ちたり、はみ出して電車に接触する事故があるので、電車が停車した時だけ開くドアをプラットフォーム側に付けましょう、という話。

都内の乗降人数の多い地下鉄の駅とかならば、事故率の高さとドア設置の費用を検討すれば、ドアは付けた方がよい、という判断になることも多いんでしょう。腐ってもまだ日本は豊かな国だし、ドアくらいなら設置する余力もある。

しかし、国内すべての駅に設置すべき、という主張はやはりおかしい。盲人団体などから主張されれば、面と向って「できません」と言いにくい事情は分かりますけど、乗降量や電車の本数から考えて、ドアの設置費用が鉄道経営的に正当化できない場合が多そうなのは素人でも予想できる。そもそも、乗降量の少ない駅ではホームから人が落ちて電車に接触、なんていう事故は何十年に1回あるかないかという話でしょうし、そんな事故を防止するために鉄道経営自体が傾いてしまったら元も子もないでしょう?

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消費者が王様、という日本社会においては、企業や役所に消費者である市民が無謬、リスクゼロを求めることを否定しない。それどころか、マスコミも一緒になってそれを煽る。それどころか、マスコミが先頭に立って煽ってる。こんにゃくゼリーの事故の一件とか、まさにそう。

それで、政府の方も「消費者庁」なんて屋上屋みたいな機関を作ってしまって、国民のわがままにおもねってる。

それはものすごくコストのかかることだし、もっといえば、無駄があまりにも多い。みんな、成熟した大人なんだから、もう少し考えようよ。

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ついでに、思い出したのは飛行機の設計。

これは限りなく無謬、リスクゼロを求めるべきと考えられる。たとえ100万回の離着陸に1回事故を起こす程度だとしても、世界中で毎日何万回も離着陸が行われているわけだし、事故ったときの影響の大きさを考えれば無謬を求めようとするのは当然だと思えるよ。

で、飛行機なんかで取り入れられているのは、「fail safe」という思想。どんなに厳密にやっても、やっぱり壊れる時はあるし、人為的なミスもある。だから、もしもの問題が起きたときに備えて、致命的な機構には必ずバックアップを設けるという考え方です。重要な装置は必ず複数の系統を用意しておく。


って、これって、「無謬を求める」というのとはちょっと違う気がするよね。「無謬ではないことを認めて、間違いが起きた場合でも事故に至らないようにする。」というわけで。

人間の考えること、なかなか賢いよね。

September 02, 2010

「外圧」が懐かしい。

そういえば昔、「外圧」という言葉が日常的に使われていたような気がする。ニュースはいつも、「外圧」の話を伝えていた。そう、「外圧」は「gaiatsu」としてそのまま英語でも使われるくらい、みんなのお気に入りの単語だったよ。

とかく反応が鈍く、なかなか明確な政策を打ち出さない日本政府に対して「外圧」は有効な手段だったよね、特にアメリカにとっては。なんとかしろ、という圧力を外からかければ、日本はあたふたと対応していたように覚えてます。市場を開放しろ、関税を下げろ、もっと輸入しろ、陰に陽に外圧をかけて対応を求めた。まあ、そうでもしなきゃ、他所様の顔色ばっかり見てなかなか決断ができなかったからね、日本は。

そして、「外圧」はアメリカだけでなく、日本の政策担当当局にとっても便利な言葉だったよね。何らかの対応を取らなければ「外圧」に負けてしまいます、「外圧」を緩和するにはこの程度の妥協が必要です、という感じに使えば、政策の合理性や妥当性についてネチネチと吟味されることなく政策を通すことができたからね。


「外圧」が盛んに使われたのは、バブルの頃までだったかな。日本経済が最も勢いづき、世界の市場を席巻し、その勢いが故に世界中のあちこちで摩擦を引き起こし、「なんとかしろ」と文句を言われた。その「なんとかしろ」の文句が「外圧」だったのでしょう。

*   *   *

気がつくと、すっかり「外圧」なんていう単語を目にしなくなったね。しぼんじゃって年中病み上がり、もはや脅威でもなくなった日本に「外圧」なんてかける用事もなくなった、ていうことなんでしょうかね。それどころか、「もうちょっとがんばってください、あなたが風邪ばっかり引いてると、周りも困るんですよ。」と心配されるような状況だもんね。

「外圧」をかけられてばかりの頃は、「大変だなー」「うるせーなー」とイライラもしたし反発も感じたでしょうが、思えば、「外圧」をかけられるうちが華だったんでしょうね。

*   *   *

もうひとつ、国際経済の世界自体も変わったんだよね。国と国の二国間の通商関係ではなくて、市場経済が爆発的に拡大してる。「外圧」が見えなくなったのは、国際経済の「市場」、マーケットによる支配が強まったっっていうのもあるよ。変なことやってると、市場から警告を受け、場合によっては手痛いダメージを受けることもあるわけでさ。政治の世界はともかく、特に経済の分野においては、「外圧」は「市場の圧力」に置き換えられてしまった感があるなぁ。


「外圧」にノスタルジーを感じるほど、時が流れちゃった。

August 26, 2010

途上国共通の印象

実は南北アメリカ、オセアニアには行ったことないんですけど、割といろんな国に行っている方だと思います。旅行、仕事、あるいはストップオーバーなんかで、ざっと数えて30カ国くらい行ってるかな。

それでいつも思うのは、「途上国」共通の特徴ってなんだろうか、ということなんですよね。そりゃ、明らかに貧しければ途上国です。汚い池の水を汲んで飲料水にしてるとか、子どもが学校にも行かずゴミ箱漁ってるとか。そういう現象面の途上国ぶりを挙げるのは簡単なんですけど、気になるのは、どうしてそういう社会になっちゃうのか、何か共通のパターンがあるのだろうか、ということなんです。

何で、発展しないんだろう。

植民地支配時代からの歪んだ経済・社会構造が解消されない、自然環境が厳しい、政治が安定しない/腐敗している、競争力のある産業がない、そのどれも発展しない原因になりうる。

識字率が低い、衛生状態が悪い、食料難である、失業者が多い、医療機関がない。結果としてそんな状況に陥っており、その状況が世代を超えて受け継がれる悪循環を作っている。

どこで間違ったんだろう。

このブログでさらっとまとめられるような議論ではないし、このテーマだけで山ほど本や論文も出版されています。ただ、ただですね、途上国、先進国、まあその間の中進国を30カ国余り歩いてみて、発展していない国、あるいは少なからず豊かな人々がいても、どこか途上国風情から抜けきれない国には、なんとなく共通した印象があるように思うんですよね、私の主観に過ぎないかもしれないですけど。

「明日までにできます。」「こちらから後ほど電話をかけ直します。」「開会は午前9時です。」「これで問題ないはずです。」「たまたま今日は品切れです。」「不良品だったら交換します。」・・・この手の小さな約束が、およそ信用できないのが途上国っぽいと思うのです。全部、自分で責任を持って確認しないとうまくいかない。思い出してみると、ダメな国はみんなこんな感じだったような。できると言ったことができない、やると言ったことをやらない。どんなに見かけ上は豊かでも、曖昧な言葉なので使いたくはないんだけど「民度」が低いと、途上国っぽい印象が出てしまう。きっと彼ら彼女らはウソをつく気はないんでしょうけど、結果的に、日本人の私の常識からすればウソと同じことになってしまってます。もう、慣れましたけどね。

これが国が発展しない理由です、とは言えない。でも、国が発展しなかった結果こういう人間がいっぱいできました、とも言えない。要は、発展できない悪循環の輪の鎖の一部なので、理由でもあり、同時に結果でもあるんでしょう。

さて、とはいっても、何の答えにもなっていない。

どこで間違ったんだろう。何で発展しないんだろう。現に今、途上国である社会の特徴的な印象は共通なものがありますって言ったって、それは、はあそうですか、というだけの話であって、発展しない(あるいは少なくとも今までは発展していなかった)原因を説明したことにはならない。ましてや、解決策も提示できない。

まあね、明確な説明と、すっきりした回答がある問題ではないことは確か。強いて言えば構造の問題であり、システムの問題なんだよね。

少なくともじゃんじゃん援助をすれば解決するというような問題ではないよね。ひとりひとりの善意は大切だとは思うけど、篤志家の慈善活動もその成果は問題の全体像から見れば些細なものだったりする。

*   *   *

私個人としては、結局のところは、途上国の人々にも金儲けをしてもらうことしかない、と思うのです。小さくてもいいから、ビジネスを、経済活動を盛り上げるしかない。社会や個人の規律-decipline-もそこから生まれるんじゃないかと。国際援助も必要だけど、できることには限界があって、それだけでは問題が片付かないのは確かだと思うよ。

要は「経済」なんじゃないかと。

まあ、原因はそれだけではないし、「経済」のために援助も必要なんだけどね。「経済協力」なんて言葉もあるくらいでさ。

August 21, 2010

人間に限りなく近いヒューマノイド

古典的な話題。

人工知能はどこまで人間に近づけるか。ヒューマノイドは作れるのか。

どこまでハードウェアが精緻になっても、どこまで天才的なコードが組み込まれても、最終的には人間とは同じにならない。たとえ「経験」や「記憶」をデータとして準備してシステムに組み込んでも、人間だけが持つ、不合理なノイズのようなものが、人工的には再現できないコードのかすかなもつれのようなものが「意識」を生み出しており、完全な人間にはならない。

というのは、映画「攻殻機動隊」シリーズで押井守氏が提示しているモデル。その「人間にしかないノイズのようなもの」を、「ゴースト」と呼び、本当の人間の「ゴースト」をシステムに組み込むことをめぐる物語が展開される。「ゴースト」を得たシステムは意識を持ち、それがネットワークの中に息づくのかも、というお話。

いや、「ゴースト」なんて関係なくて、与えられた外部からの刺激に生身の人間が示す反応を悉く模倣するシステムがあったら、それはもはや人間とは区別がつかないではないか。それが意識を持つ持たないに関わらず、生身の人間が示す反応と同じ反応を示すのであれば、傍目にはそのシステムは人間とどう違うというのか。

というのは、映画「ブレードランナー」で登場する「レプリカント」呼ばれたヒューマノイドみたいな存在。機械なんだけど、究極まで人間を模倣するので、人間とレプリカントを区別するのは容易じゃない、という設定だった(ような気がする)。


思うに、高度に可塑性のある(たぶん有機的な)人工知能を備えたシステムがあって、それを実際に「育てて」みたら、本格的に人間に近い人工知能を作ることができるんじゃないだろうか。押井守氏の提案するような「ゴースト」を収容できるシステムで、かつそれに成長が可能であったら、そのシステムをあたかも子どものように育てていけば、完全な人工知能になり得るのではないか。だれかボランティアを募って、システムを養子にしてもらうの。そのシステムを収容するハードウェア—身体ーにどんな形を与えるのかも思案のしどころになるだろうけど、とにかく、赤ちゃんのシステムを普通の赤ちゃんと同じように扱って、何年もかけて育ててみたら、それはもう人間の意識と同じものを宿すかもしれない。

*   *   *

と、ここまでぼんやり夢想して、気付いた。外部刺激を記憶し経験を積むせること、そして成長させることが人間と遜色ないヒューマノイドを作る方法だとしたら、そのヒューマノイドは死を意識するのか?

もしかして、人間が人間であること、どこまで精緻に作られても機械であるところの人工知能と人間が同じでないことの根拠は、人間が有限の時間を意識していることなのではないだろうか?

スピルバーグの映画「A.I.」で登場する子ども型の愛玩ロボットは、いつまでも子どものままだったね。でも、経験を積み、記憶を増やしていくことができる。昔を思い出したり、懐かしんだりする「感情」を持つ。そんな愛玩ロボットは、長く可愛がっていたらどうなるんだろうか? あの映画では愛玩ロボットは8歳だか10歳だかの男の子の形状をしていたけど、そんなロボットを10年、20年と可愛がったらどうなるのだろうか。8歳の子どものくせに、20年の人生経験を持つ状態というのはあり得るのだろうか。あの映画では、愛玩ロボットは経験を積み、記憶を蓄えていくことができるように見えたけど、そうだとしたら、成長してしまうのではないか。大人になってしまうのではないか。経験を積み、記憶を蓄え、知識を得ていくのに成長しない、という設定が可能なのだろうか。残念ながら「A.I.」では、そんなところまで描いてはいなかったですね。

「銀河鉄道999」の主人公・鉄郎は、永遠の命を可能にする機械の体を手に入れるため銀河を旅する。しかし、機械の体をタダでくれる星に到着したところで、機械の体を手に入れることを止める決断する。生きていることは、有限の時間を意識すること、永遠の命を可能にする機械の体を手に入れてしまうと、それはもはや生きていることにはならないのではないか、と考えた(んじゃないかと思う。原作者の松本零士さんの考え、なわけだけど。)。

*   *   *

人間に限りなく近いヒューマノイドとは、成長し、いすれ死んでしまうシステム、という定義はどうだろうか。

しかし、これってなんだか「生きている」ということはどういうことか、という定義に近いよね。
要は、人間に限りなく近いヒューマノイドとは、人工の生き物、人工生命体である、と言ってるに近いな。

仏陀は、「生」「病」「老」「死」を誰も決して逃れることのできない四つの苦しみとして挙げた。命あるものが絶対に避けられない現実。ということは、逆に言えば、この四苦を逃れているものは、命がないものとも言える。

完全なヒューマノイドは、人工の生き物であるとすれば、このヒューマノイドは四苦を実感するのだろうか。


*   *   *

ぼやぼや考えるだけで、なんの結論も出ていないんだけど、人工知能の研究が認知科学や心理学、哲学と切り離せない関係にあるのは分かったよ。

August 15, 2010

社内英語化、やりたきゃやればいいんじゃないの?

ちょっと旬を過ぎた話題になりますけど、楽天やユニクロが社内の共通語を英語にすると決めたという話。三木谷・楽天社長は決算報告の会見を英語で行って注目を浴びたりしておられます。社内共通語を英語にするということについては賛否両論ですが、なんとなく反対派の人の声が大きいように見えます。どうなんでしょうか。

「能力があって英語が出来ない人と、能力がなくて英語が出来る人、英語化すると後者が優勢になって会社のためにならない。」
「能力があっても、苦手な英語では能力が十分に発揮できない。いつもアウェイで勝負するような不利な状況に置かれる。」
「顧客とは英語で仕事できない。佐川の配達員にも英語で対応するのか?」
「日本人同士で英語で話をしているのは滑稽だし、不気味だろう。」
「TOEICが基準点に達しないとクビなのか。それってひどすぎる。」

などなど。たしかに一理あるように思いますけれども、私は、どちらかというと「英語化?いいんじゃないの?」という感想を持っていますよ。だって、一企業の判断なんですもん。会社にとって、社内を英語化した方が商売がやりやすい、そちらの方が会社の成長にとって都合が良い、と判断されたということなので、だったらそうすればいいんじゃないですか?という、安易な考えなんですけれどもね。

楽天もユニクロも、グローバル展開を図っていくには世界各地に存在する(ことになる)事業所間で円滑なコミュニケーションが必要で、そのためには日本語を標準としていたのでは都合が良くない、と判断されたのでしょう。また、グローバル・マーケットに打って出るに際して、社員の英語力の不足を感じ、多少の無理を押してでも英語化を宣言した方がよいと思われたのでしょう。英語化による非効率の発生を天秤にかけても、やっぱり英語化した方がビジネス上の利点が多いと判断されたということで、周りがとやかく言うことでもないかなと思っています。

「能力があって英語が出来ない人と、能力がなくて英語が出来る人、英語化すると後者が優勢になって会社のためにならない。」って、その通りになってしまって会社の業績に影響がでるような事態になれば、それは経営判断としての英語化が間違っていたということになるだけです。

たしかに見回してみると、かつてのように海外事務所に日本から社員を赴任させ、本社の指示を仰ぎながら事業を展開する駐在員派遣型の海外事業展開は、今どきの国際市場では非効率が目に余るものになりつつある。中国市場でもインド市場でも、現地には優秀でグローバルな人材はたくさんおり、わざわざ日本人を送らなくても、現地の人材を採用した方がよほど効率的だと思う。現地の人の方が、現地の言葉、現地の商習慣にも通暁しているわけですし。海外生活が不慣れな日本人がオタオタしながらなんとか現地に順応し、それからやっと仕事に取り組みます、というのではなんとも遅いし、現地で雇った人には太刀打ちできないでしょう。現に、パナソニックは新規の採用の8割は外国人にする、ということになっているらしいし。

そういう国際的なビジネス環境になれば、社内の標準言語を英語にした方がいいかもね、という判断もありえるだろうなぁとも思いますよ。

公立学校や役所が英語を標準にするという話ではないのです。そんな話には断固反対ですよ、もちろん。十分な母国語の運用能力があっての外国語だし、言語は文化と一体のもので、それをおろそかにはできない。英語教育を小学校から義務化する、なんていう話も、考えなくてはいけないことがたくさんありそうで、「はいそうですか」とは賛成できないです。

ただ、グローバル市場で商売をする一企業の判断としての社内の英語化は、別の話。英語化が便利だと思えば、その便益が不便を上回るのであれば、そうすればいいじゃないって思うんです。

August 13, 2010

カガメ大統領の再選

「ホテル・ルワンダ」という映画があったの、覚えてます? 1994年、ルワンダのツチ族とフツ族(「族」という表現は差別的だという批判もあるようですが、言葉狩りをしても仕方ないのでそのままにしておきます)の対立が先鋭化して、フツ族によるツチ族の「民族浄化」が勃発、そんな中でフツ族のホテル支配人がツチ族の人々をなんとかして守ろうとした必死の行動を描いた映画です。実際に起こった悲惨な出来事なんですけど、「残酷でしょう?かわいそうでしょう?」っていう扇情的な演出を避けて、比較的さらっと描いたのが逆にリアルさを際立たせていた映画だったように覚えています。

日本ではメジャーな配給会社による上映がなく、あまり日の目を見ないままお蔵入りになりそうだったところだったのに、この映画はもっと広く公開されるべきだという市民運動、署名活動が拡大して、結果的にそれなりのヒット作になったという経緯も興味深かったですね。

そのルワンダなんですけど、第二次世界大戦後では最悪と言われた民族浄化からほんの15年しか経っていないのに、首都キガリはいまやアフリカでもっとも治安がよく、成長著しい注目の都市になってます。スタバを彷彿とさせるような清潔でシャレたカフェなんかも繁盛しているし、インターネットの普及率も高いなんていう話を聞きました。

その立役者がカガメ大統領。私がカガメ大統領がしゃべるのをちゃんとテレビでみたのでは、ユアン・マクレガーがアフリカ大陸をバイクで縦断するという番組でルワンダを通ったときに、妙に気さくにユアンの訪問を受け入れていた時でした。カガメ大統領はユアンを自宅に案内し、大統領がここまで私邸の中をテレビに映させてよいのかしらん?とか思ったの覚えてますよ。細身でひょろっとした体躯で、哲学者然とした語り口が好感を持てました。

民族浄化、国民同士が殺し合いをやった後の初代大統領ですから、悩みも深く、やることも多く、こういう思慮深い賢人宰相型の大統領がふさわしいんだろうなぁとも思った。

*   *   *

ルワンダの大統領の任期は7年。先週大統領選挙が実施され、カガメ大統領は93%の支持を集めて再選されました。まあ、普通に見てれば順当な結果だなと思います。

ただ、ですね。

選挙前から、あまり気持ちのよくないなニュースがぱらぱらと流れてきたのです。まず、カガメ大統領の対立候補で有力な人物は、ことごとく選挙に立てなくなっている。ある者は逮捕拘束され、ある者は被選挙権を停止され、またある者は暗殺されている。メディアの締め付けも厳しく、大統領与党の批判は事実上行えない状態になっているらしい。まあ、ジェノサイドからたった15年でここまで経済を回復させ、社会を安定させた功績は大きいので、批判しにくいカリスマになっているとは想像されますけど、それでも当局が批判を封じてしまっているという情報はちょっと気になる。

で、こないだBBCのインタビュー番組に出ていたカガメ政権の女性の外務大臣は、「ルワンダの悲惨な過去は、過去とはいえまだつい先頃の話で、こういう情勢では民主主義よりも国民の和解を優先せざるを得ない、そのためにある程度強権的な政権運営はやむを得ない」というったような趣旨の発言をしていたんですよね。事実上、反対派の弾圧を認める発言に聞こえた。

うーん。

アフリカをはじめ、世界の脆弱国家を見てみると、民主主義の実践が最前の解決策で、絶対的に正しいと断言できない実情があるのは、確かにそうなんですよね。特に、欧米の主張するように厳密に自由で公正な選挙に実施が絶対的に正しい、とは言い切れないところがある。現に、東南アジアは今でこそ繁栄を享受し、いろいろ不都合はありながらもとりあえず民主的な制度と認められる程度のことはやっているけど、ついこの前まではどこも開発独裁の国ばっかりだったわけです。国民の教育水準とか、経済水準とかがある程度の条件を満たさないと、自由選挙が社会の安定を逆に損なうことも多くて、スタートラインに立つまではある程度強引な政権運営が必要だったりする。

一種の哲人政治だと思うんですよね。Wikipediaによると、哲人政治とは「哲人王を統治者とする独裁政治体制の一種」とある。マルコスが、スハルトが、リー・クアンユーが、マハティールが「哲人王」であったかどうかは議論の分かれるところでしょうが、開発独裁は衆愚政治を避けるためのひとつの解決策であったともいえる。民主政治をやっても衆愚政治に陥らないところまできて、初めて自由で公正な選挙をやれるのかもしれない。哲人王というよりは、私欲のために国家を利用しただけの僭主だった支配者もあまたいるんですけど、開発独裁は過渡的体制として機能したことも確かだと思う。

カガメ大統領の哲学者然とした人物像と大統領第一期目は業績は、カガメ大統領を事実上の哲人王、少なくとも開発独裁と見なすに足るものなのだろうか。先週の大統領選挙は、カガメ大統領を哲人宰相と認証するための儀式だったのだろうか。

思い起こすのは、ジンバブエのムガベ大統領。30年前のジンバブエ独立は、人種差別政策をとってイギリスがら一方的に独立宣言をしていた南ローデシアのスミス政権を、ムガベ氏らが率いる愛国戦線が打倒して獲得したものなんですよね。独立後のジンバブエは人種差別の撤廃を打ち出し、現に当時の内閣には白人の大臣もいた(って、現在もジンバブエの教育大臣は白人なんですけど)。イギリスはムガベ氏の業績を高く評価し、「Sir」の称号まで送っている。

ところが30年後の今はどうか。1980年代の黄金時代はどこへやら、政権幹部は私利私欲に走り、経済は崩壊し、国際社会からは孤立し、民主的とはおよそ言えない選挙ばかりを繰り返し、白人・欧米を露骨に敵視し、英連邦からは脱退し、推しも推されぬ世界の問題児です。ムガベ氏だって哲人王かと思われた時代もあったのに、です。

対照的な南アフリカのマンデラ氏の例もある。高齢だったというのもあるのでしょうが、デクラーク政権で最後になった白人政権を清算して新・南アフリカの礎を築いたところの早い段階で後任を立て、民主的な選挙で後任の大統領が選ばれる環境を作った。いまや神格化されたマンデラ氏を批判することは御法度になっているし、哲人王のまま晩年を迎えていらっしゃる。(実際には縁故主義の問題もあったらしいんですけど、もはやだれもそんなこと口に出せないでしょうね。)

カガメ大統領はどういう道を進むのか。今のルワンダ経済の好調ぶりを見ていると、そう遠くないうちに西側諸国が標準的と認めうる民主主義の実践が可能なスタートラインに達するかもしれない。そのとき、カガメ大統領は自由で公正な普通選挙を実施できるのだろうか。

とりあえず、大統領二期目の任期の新しい7年が始まりました。今後の動きが気になります。

August 10, 2010

自己肯定感の根っこのところ

前回、「今どきの就活って憂鬱だね」っていうエントリを書いたのですが、それに関して思い出したこと2点。

今どきの就活って、人が人として生きていくための基本ともいうべき自己肯定感、社会に対する無条件の信頼感みたいなものをぶちこわしちゃう構造になってるんじゃないかっていう感想を書いていたんですけど、その仮説を補強するような話を思い出した。

ひとつは、孤児院の子どもたちの死亡率が、一般家庭の子どもたちのそれ比べて有意に高いっていう話です。どこで聞いた話なのか忘れたし、今から一次データを探す元気もないんですけど、ありえる話かもしれない、と考えてます。日本の孤児院だったら、特別に栄養状態が悪いとか、医療がまともに受けられないとか、そういう環境ではないはず。衣食住はちゃんとコト足りて、学校だってそれぞれの個性や能力に合ったところに行くくらいのことはできていると思うんです。私大の医学部に行きます、なんていうのは無理だろうけどね。

なのに、死亡率が高いらしい。確かその話を聞いたときに指摘されていたのは、子どもが風邪こじらせて肺炎になったりするとあっけなく死んでしまうような事例が、一般家庭よりも多く起きているということでした。医者にも診せてるし、投薬もしてるのに、なぜか孤児院の子どもの方が命を落としやすいそうで。

これもね、見返りを求めない親のからの愛を十分に受けなかったことが理由の一つじゃないかと思うんですよ。無条件に「自分はこの社会で受け入れられているんだ」と実感する機会が十分でなかった。自己肯定ができていなかった。それが生命力の差になってしまうんじゃないでしょうかね。

もうひとつ思い出した話。これもどこで聞いた話なのか忘れてしまってるんですが、だれかが「母親が亡くなってから、本当に自分の人生が始まった気がする」っていうのを言ってた(か、書いてた)。まだ両親が健在な私がこの話を「分かります」なんていうのは思い上がりだろうし、本当のところはそのときが来ないと実感できないんでしょうけど、それでも、そういうこともあるかもね、と思ったんですよ。

この世に生を受けてから接する最初の人、その先に広がる人間社会への最初の窓口となる人が、母親ですよね、普通。この人から無条件に愛されることで、子どもたちは生きていくことができる。社会が自分が生きていくことを肯定してくれている、それどころか、積極的に生かそうとしてくれる、という実感を、まずは母親から学んでいくのだと思うんです。自己の存在を確認するための、最初の他者が母親。
子どもは学校に入り、社会に出て行くにしたがって、自分の世界を広げていくんですけど、社会に対する信頼感の根っこは両親、特に母親にあると思うんですよ。

そして、その人が亡くなる。そのとき、自分は自分が切り拓いてきた世界と、それまでに培ってきた経験を以て、社会に対する信頼感を確立できているのか、自己の存在を肯定できるのか。足場を組んで建てた塔から、初めて足場を外すときのような危機感があるのだと思う。その塔は足場がなくてもスクッと立っていられるのか。「本当の自分の人生が始まった気がする」って、足場が外されて、まさに「自立」することが求められることなんでしょう。


就活の話から始まりましたが、最後はなんだかマザコンについての分析みたいな話になってしまいました。

August 07, 2010

今どきの就活って憂鬱だね。

このところ、新卒の就職率が悪いとか、就職活動が大変だとかいう記事がたくさん出てますね。そもそも新卒一括採用というシステムがもはや合理性を失っているのに、未だにそれが支配的な採用システムで、これじゃ日本企業の活力も無くなるし、若い人材は潰されていくし、大学ではまともな学究活動ができないし・・・というような話もよく聞く。内田樹先生の「日本の人事システムについて」とか、どこで読んだのか、山田昌宏先生のお話とか、いやあもう、まったくそうだと思いますよ。

私自身が新卒(っていうか院卒)で社会に出たのは1996年で、当時は大学3年、ひどい場合は2年の秋から就活はじめなきゃいけないというようなとんでもない状況にはまだ至ってなかったけど、「就職超氷河期」なんて呼ばれた時代で、それなりに厳しい時代だったし、結局今に至るまで、6回、7回も転職を重ねることになってしまってるので、今、就活をやっている学生の人たちのストレスも分かる気がする。

そう、内田先生のエントリにもあるように、査定される側に立たされて、なんの基準だか分からないところで査定されて、わからないところでダメ出しをされてしまうという構造にマイッてしまうんですよね。採用側はあたかも合理的な基準で(でも、明かされない基準で)査定しているように振る舞うので、採用される側は訳も分からぬまま「自己分析」だの「志望動機の充実」だのに走っちゃう。で、「ご縁がありませんでした」なんて言われることが続くと、自分は社会に役立つ人間ではないのではないか、社会に必要とされてないのではないかと、不安をつのらせ、精神的にマイってしまう。自信を失ってしまう。自分自身を認めることができなくなって、本当に社会に出れなくなってしまう。

しかも、多くの日本の会社は新卒の一括採用を続けているし、「新卒」のブランドは未だに絶大なので、大学卒業のそのときに就活に失敗してしまうと、もう、挽回不可能な感じで、なんだか人間的に否定されたようなダメージを受けてしまうんだよね。

*   *   *

ちょっと話はずれていくんだけど、人が社会でよく生きて行くためには、根本的なところで社会に対する信頼がないといけないんだろうと思うんです。自分はこの社会に受け入れられているんだ、この社会に生きる場所があるんだって、本能的に、無意識的に信じられることが大切なんじゃないかという気がしてる。

その最初のステップは、やはり両親の愛、家族の愛から始まる。使い古された陳腐な言葉ですけど、親から受ける「無償の愛」は、社会に対する信頼の始まりだと思う。子どもはまだ未熟だし、できないこともたくさんあるんだけど、親はそれでもかわいがって、世話をしてくれる。見返りを求めることなく、受け入れてくれる。子どもはそんなこと意識していないと思うけど、自分が生きて行くことを当たり前だと感じ、疑問をもたない。この段階で、社会に対する信頼、自分には生きていく場所がある、っていうことが精神の深いところに刻まれていくんだと思うんです。

やがて小学校に入学し、中学校に進む。子どもたちは自分の生きて行く社会を少しづつ広げていくわけです。いじめられたり、けんかしたりしながらも、少しづつ広がっていく社会の中で自分の居場所を模索していく。軋轢はあるけれども、自分の存在を確認しながら、自己を確立していくんですよね。

受験、なんて人から査定されるイベントもあるんだけど、これは、基準がはっきりしている。所詮、点数なんだから。そりゃ、点数取れる方がいいには決まってるんですけど、それだけが社会、世界じゃないことは明らかだし、ダメならダメで、別の道はいくらでもあるし、もっと勉強がんばる、なんていう対策もある。世界は広いし、生きていく場所はいくらでもある。

学歴社会を非難し、受験戦争は点数だけで判断するのがけしからんと非難し、内申点やらなんやらを取り上げて、「点数だけではなく、もっと総合的な能力や潜在力を見て合否を決めるべき」なんていう人がいるけど、もしそんな試験ができて(できっこないけど)、かつその試験に落ちちゃったらどうするわけ?人間失格なわけ? 結局、現場で起きたことは、内申点を上げるためだけのボランティア活動に忙しい、よい子ちゃん競争にいそしむ子どもたち、だったじゃん。そんなの、もっと病んでるよ。

あ、話が逸れた。

とにかく、社会に対する根源的な信頼、が、アイデンティティの確立の前提条件のように思うんですけど、今の日本の新卒の採用制度っていうのが、この「信頼」を崩すような働きをしているように見えるんです。学生に対し、「あなたは社会に必要とされていない」と宣告する仕組みを構成してしまってる。さっきの、点数だけでなく総合力を判定する受験、と似たような感じ。基準がよくわからないけど、よくわからないなりに努力を求められて、受かればいいけど、ダメなら人間失格かっていう気分にさせられてしまう。みんな「新卒」をありがたがるので、この機に内定もらえなければ失格、おしまい。強烈なストレスです。自己の存続にかかわるストレスになると思う。引きこもっても当然だって思うよ。

両親の愛、家族の愛を受けて育ち、学校という大人社会の予行演習を経て、やっと自分っていうものを培ってきて、さて、社会に出るぞっていうところで、一斉にふるいにかけて、「あなたは社会に必要とされていません」って宣告する。採用側にそんなつもりはなくても、まだまだ脆くて不安定な学生さんたちにとっては、そりゃ、アイデンティティの危機になってしまいますよ。

私の場合は、とりあえず社会に出てみて、おかしいな、こんなはずじゃないよな、って転職を繰り返したり、もう一回大学院に行ってみたりして、とりあえず自分自身の衣食住くらいは賄えるところまで来ました。幸運にも鬱病にかかることもなく、ホームレスにもならなかったし、生活保護も受けずに済んだ。でも、今のご時世は、そんなことやってると「非正規」から「ワーキンブプア」への深い穴に落ちちゃったりする恐怖もあるよね。そんな時代じゃなくてよかったと、正直、ちょっと安堵している自分もいます。

でも、やっぱりひとつだけ。

就活のただ中にいると、それが世界のすべてのように感じられるし、ちゃんとしたところに勤めないと体裁も悪いし親も心配する、っていうのもあるかもしれないけど、意外と世界はもっと広いんじゃないかな。息苦しい日本から逃げたっていいし、自分一人くらいなら養える道は「新卒でどっかの会社に入る」以外にもあるよ、きっと。

August 05, 2010

高品質な手摘みの綿花


新しいジーンズを一本欲しいなと思ってネットを散策していて、こんな感じかなと思ったのが、「FULLCOUNT」というブランドのやつ。 公式ページはflashを多用し過ぎていてゲンナリするんですけど、amazonで取り扱いの方を先に見つけたもので。

で、公式ページの方を見てみるとさ、

「FULLCOUNTのジーンズで使用しているのは、綿花の中でもハイクオリティーとして名高いジンバブエコットンを使用しています。」

「ジンバブエコットンはアフリカの大自然の恵を受け、じっくりと大きく育てられています。すくすくと育った綿花を完全に開ききったところでひとつひとつ手摘みし綿カスなどの不純物を取り除きながら収穫しています。」

これはこれは。

「・・・使用しているのは、・・・使用しています。」と、日本語的には正しくない文章で書かれているのが残念ですが、ジンバブエ産の綿花を使ってるんですねぇ。デザインはこんな感じがいいかな、と思って見てみたら、素材もそういうことですか。 これはお買い上げ決定でしょう。

って、防縮加工をしていないとか、履いているうちにフィットしてくるとか書いてあるんで、サイズを頼りに通販で買うのは危ないでしょう。店員に聞きながら試着して買いたい。幸い新宿伊勢丹とかで取り扱ってるみたいなので、次の一時帰国時に買うことにしましょう。

*   *   *

「ひとつひとつ手摘みし綿カスなどの不純物を取り除きながら収穫」というのは本当らしいんです。2、3ヶ月前にイランのアフマディネジャド大統領がジンバブエを来訪した時(世界の鼻つまみ者同士で仲良くしているのであります)、イランはジンバブエの綿花生産に投資するとか、綿花の輸入を拡大するとかなんとか、耳障りの良い話をばら撒いていったんですけど、そのときにジンバブエのムガベ大統領が「当国の綿花はひとつひとつ手で摘んでいて、高品質」と演説で自慢していたのを覚えてますよ。

でも、たぶん、高品質な綿花を生産しようと思って手摘みをしているんじゃないと思うんですよね。綿花は換金作物なので、かつては白人農場主が大々的に、商業的に生産してた。その頃は黒人労働者が低賃金だったはずなので、機械を入れるよりも手で摘ませた方が安かったのかもしれない・・・。

で、ご存知の方も多いと思いますが、ジンバブエ経済は2008年に、自国通貨が億とか兆とかの位のハイパーインフレを起こして崩壊。経済崩壊の発端は農業崩壊だったし、今やまともな農業を行えている農家はほとんどいなくなっちゃった。機械設備もほとんど使えなくなっちゃって、要は、今は手で摘むしか術がないのかもしれない・・・。

FULLCOUNTの言っていることはたしかにそうだろうと思うんですけど、「ハイクオリティーとして名高いジンバブエコットン」は意図してやってるんじゃなくて、結果的にそうなってるだけ、っていう気がするよ。

August 01, 2010

日本海呼称問題

なにか新しいことや、気の利いたことを言おうというのではなくて、こういう問題が議論されているの知ってる?ってだけの話です。

日本海呼称問題。

当然だと思われている「日本海」という海の名前、これを「東海」と呼ぶべきだという韓国の訴えがあるんです。韓国は1992年頃から国際社会にこの主張を問い始め、実際に各国の政府や地図出版社に働きかけを行ってます。なんでも、韓国側の主張によれば、「東海」という呼称は2000年前から使用されており、「日本海」という呼称は帝国主義時代の日本がその国力によって無理矢理強制した呼称であるから、「東海」に戻すべきだとのこと。

こういう話って愛国心を駆り立てるものなので、世界各地の公の場に掲示されている地図で「日本海」「Sea of Japan」と表記されていると、何者かが「東海」「East Sea」と上書きしていくという事件も報告されている。たぶん、そこを訪問した韓国人がやっているのだろうというのは容易に想像されますけどね。

で、実際に、「日本海」を「東海」と表記する地図が徐々に増えている。あるいは「日本海(東海)」とか「日本海・東海」といった表記も出てきている。

他方、日本政府側は世界中の主要な図書館の古地図や古文書を調べて、韓国側の主張に根拠がないことを訴えている。それによると、「日本海」という呼称が概ね定着したのは17世紀、18世紀とか、そのくらいらしい。っていうか、まともな古地図が世に登場したのがその頃、っていう気もするけどね。で、その前は特に決まった名前がなく、海に名前が書かれてない場合も多いみたい。しかし、古文書や古地図にあの朝鮮半島と日本列島の間の海に名前が表記されている場合は、ほぼ「日本海」。古くは「東洋海」(Oriental Sea)や「朝鮮海」(Sea of Korea)という表記もあったらしいけど、日本政府の調査によれば、どの時代にあっても「日本海」とする文献が大多数で、その他の呼称が使われている事例はわずか。ましてや「東海」という呼称はその中でもさらに稀な例で、事実上ほとんど使われたことがない呼称らしいです。

韓国側が「日本海」の呼称を嫌う感情も分かる気はする。帝国主義の日本に痛めつけられ、最後には併合され、民族の誇りを蹂躙された歴史がある。しかも、「恨」(ハン)を美徳とする国民性。その韓国の東に横たわる海が「日本海」というのは、たとえ戦後65年経ったとはいえ、心穏やかではいられない。わずかでも「東海」と呼ばれた事実があるのであれば、やはりこの海は「日本海」ではなくて「東海」であった、「日本海」という呼称は日本軍国主義の名残だと主張もしたくなるでしょう。

この日本海呼称問題、問題が他の領土問題と比べて様相が異なる点があります。当たり前ですが、日本、韓国、双方とも領有権を主張しているわけではない。日本海は国際法上の公海、どの国にも所属しない海なんですよね。公海の呼び名を争うという事例は他に例がない。

世界各国、領土問題を抱えている国はいくらでもあって、各国は領土問題を解決することはできていないけど、領土問題がどういう問題で、どういう風に扱うべきかということには、それなりに慣れている。「ああ、2カ国、3カ国が領有権を争ってるのね、歴史的経緯はどうだったのかな。民族的、文化的帰属はどっちにあるのかな。でも、A国の主張を認めたら、我が国が抱えている別の領土問題での主張と矛盾するな。B国は我が国の友好国だし、ここで主張を認めておけば恩が売れるかな。云々。」って感じで外交ゲームが日々行われているけど、公海の名前を争うっていうのは例がない。

例えて言えば、パキスタンがインド洋を「インド洋」と呼ぶのはけしからん、あそこは「南海洋」である、と主張するのと同じ状況なわけです。日本側は、一国の国内的事情で公海の名前を変えさせようとする挑戦が認められるとすれば、そういうことも起こりうる、として国際社会に訴えている。また、国際海洋交通、国際航空交通上の混乱も無視できないとも訴えている。

しかし、各国の地図出版社や放送局などの中には、韓国の主張に「そうなのかなぁ」と納得して「東海」の表記を載せるところが若干づつだけれども増えているらしい。


別に私は嫌韓でもないし、隣国同士で仲良くやっていけばいいじゃん、って思ってますけど、両国間には竹島問題や歴史教科書問題に加えて、こういう問題もあるんですよね、っていう話です。

July 28, 2010

「波紋が広がる可能性がある。」

7月26日:東京新聞(共同通信)
「新駐中国大使の丹羽宇一郎・元伊藤忠商事社長は26日、都内で、中国の国防費が2009年まで21年連続で2けたの伸びを記録したことに触れ、軍事力増強は「大国としては当然のことといえば当然のことかもしれない」と述べた。
 国防費の大幅な増加に対しては、中国脅威論の象徴として日本や米国などで警戒感が根強いだけに、民間人初の駐中国大使として今月末に着任する丹羽氏の発言は波紋を広げる可能性がある。

7月27日:産經新聞
「JR東海の山田佳臣社長は26日に名古屋市で開かれたリニア中央新幹線の建設促進を求める集会で、中国・上海のリニアモーターカーに触れ「あちらが小学生のおもちゃなら、わたくしどものリニアはiPadみたいなものだ」と発言した。
 米アップルの多機能端末「iPad」を例えに自社の技術の優位性を強調しようとした発言だが、波紋が広がる可能性もありそうだ。

もう、こうい書きぶりにはウンザリです。

人の揚げ足をとっておいて、それがあたかも社会の良識に反しているかのように導く。記事を書いている記者が自分の責任で批判するのではなく、他人に預けた格好で批判を展開する。

どこに「波紋が広がる」のか? 大新聞が大好きな「世論」が発言を批判している、とおっしゃりたいんでしょうね。しかし、彼らのいう「世論」って、どこに実体があるの? 

「ほらほら、こんなこと言ってるよ。おかしいよね?ね?問題だよね?そう思うでしょ?ほら、こんな発言した人は糾弾されるべきだよね?ね? ほーら、みんなこの発言は問題だって言ってるよー。」って言ってる感じ。で、彼らのいう世論とはこんな幼稚な誘導に「そうだ、問題だ。」と反応する市民の集合体ってことなのかもしれないけど、そんなもの、実在しないよ。

百歩譲って、発言の内容が本当に問題で、大きな問題を起こす可能性のあるものなら、「波紋が広がる」と書いても許されるでしょう。たとえば、時の総理大臣が日米安保は見直すべきだと発言したとか、元与党幹事長が官房機密費は政治評論家の買収に使ったと発言したとか、ならね。

でも、丹羽氏、山田氏の発言は青筋立てて非難すべきことか? ひとつの見方であり、一片の真理を含むものではないか? 

この発言の記事を書くなら、「波紋が広がる可能性がある。」ではなくて、「問題であると考えられる。」と、記者の署名入りで書けよ。揚げ足取りの話をあたかも「世論」が糾弾しているかのように書くようなことをやっておきながら、ネットの世界は匿名で危険で信用ならないとか言う。どっちが卑怯なのか、よく考えてほしいよ。

July 27, 2010

飽食の時代っていうことですね。


ちょっと前に、「太るようなことをすれば太る」というエントリーを書いたんですけど、実は他人事ではないのです。

前回一時帰国したのは2009年年末から2010年の1月下旬までの約一ヶ月だったんですけど、日本にいると「この際」とばかりにためらうことなく食べてしますんですよね。それに、割といろんな用事が入るので、ジムに行って汗を流そうという空気にはならないことが多い。そもそも年末に日本に帰ったりしたら寒くて動きたくなくなるしね。当地に比べると日本って腹が立つほど寒いから。

そんな生活をやってるとすごいですよ。一ヶ月でもしっかりだらしない体型になる。人間の体ってこんなに早く変わるのかって驚くくらいです。

1月末に当地に戻って来て、これはマズいなと思って、ちょっとは節制するよう心がけてはおりました。とりあえず、2、3日に一度は帰宅後、着替えるときに体重計に乗って 記録を付けてみてました。 意識したわけじゃないですが、思えばこれは岡田斗司夫さんの「レコーディング・ダイエット」とやらに書かれてるらしいですね。岡田さんは体重だけじゃなくて食べたものも記録を付けて、入ってくるエネルギーとその余剰をしっかり認識する、ということを述べてらっしゃるらしいです。結局のところ、入った熱量と消費した熱量の差が体重の増減になるんだから、きわめて真っ当な主張だと思いますよ。すくなくとも「これを食べればやせる」「このマッサージでやせる」というような非合理的なものじゃない。

で、1月末から7月までの約170日間、2、3日に一度は帰宅後、着替えるときに体重計に乗って記録を付けてみてました。その結果をグラフにしてみたのがご覧のグラフ。

・・・あんまり変わってない。

仕事や出張、社交のお誘いでたびたびお休みしたもののちゃんとジムにも通って、お腹周りは1月時点よりは改善したとは思うんですけど、体重的にはあんまり変化してないですねぇ。まあね、体重自体は、実はあまり気にしてない。脂肪少なめ筋肉多め、 だらしなくなければよろし、という感じなのですが、それにしても変化がなくてつまんないよね。

とりあえず次の一時帰国の9月までになんとか元の状態に、と思ってますけど、さすがにアラフォー。以前のようにはさくっと元に戻らないねぇ。まあ、9月からの一時帰国は寒い季節でもないし、帰国中もドカ食い、深酒を避けて、運動も続けるようにしようと思いますよ。



でも、やっぱり、日本って世界一食べ物がおいしい国なんですよね。自分が日本人である、ということを差し引いても、これだけいろんなものが、それも確かなクオリティで食べられる国は他にないと思う。節制って難しい。

July 24, 2010

情報を追わない人

「こないだの参議院選挙、民主党が大敗したんですってね。聞きました?」

と、聞かれたのが7月22日。参議院選挙が行われたのは7月11日。いくらなんでも、情報に疎すぎやしないか?

まあね、そういう環境ではあるわけです。日本のテレビはNHKワールドが見れることは見れるけど専用の設備がいる。当地の衛星テレビには日本のテレビ局は入ってない。新聞は数日遅れな上に高いので、日本大使館くらいしか購読してないだろうし。私の自宅はこのところ大分インターネットが安定して繋がるようになったけど、まだまだ繋がらない地域も多い。

日本にいれば、テレビをつけてるだけで、街を歩いているだけで、人と会うだけで、特に意識しなくても世相の関心はなんとなく自分の中に入ってくる。でも、こんな南部アフリカの彼方にいると、関心を持って見ていないと自然には情報が入ってこないわけだ。

日本のテレビが見れないのは私も同じ境遇なんだけど、すでにいろんな論者の選挙結果の分析や今後の予測ををネットで読んだし、テレビ東京が池上彰氏をキャスティングして放送した選挙速報番組が出色で視聴率もよかったとかの話題にも接していたので、選挙が終わって10日以上も経ってから選挙結果をさも最新の情報のように話していた人の様子に驚いてしまいましたよ。

しかしまあ、私は日本人として日本の世相に関心があるし、基本的になんでも「知りたがり」なので、参議院選挙の結果を10日も放置することなんか想像しがたいんですが、人はそれぞれですからねぇ。そんな、日本や世界のニュースを聞くことになんの関心もない人もそりゃいるでしょう。身の回りにあふれる「なんでだ?」という疑問に悩まされることなく、日々笑って平穏に暮らせる人もいるでしょう。あれもこれも知りたい、どうなっているのか興味がある、不思議なことはそのままに出来ない、そんな好奇心を抑えることができない私の方が、実は損な性分なのかもしれないですね。



BEGINの「がんばれ節」の一節。

インターネットで何を知る
携帯電話で何を知る
頭はいっぱいになったけど
腹減って飲みたいお味噌汁

ニュースを見なけりゃ大変よ
見ればよけいにたいへんよ
気晴らししましょう空の旅
みわたすかぎりに太平洋

July 20, 2010

太るようなことをすれば太る。

一昨日、昼ご飯が一緒になった南アの白人3人。 FedExに勤めているそうな。

3人とも、とても似た体型をしている。 身長は私と同じくらいなので、180cm強でしょう。 簡単に言えば、肥満。といっても、でぶでぶした感じじゃなくて、 肉が堅い感じの肥満。お腹周りが大きくて、足が細い。3人のうち2人は坊主なので、「入道」っていう単語が思い浮かぶ。3人は 一緒にダイビングをやった人たちで、運動はちゃんとできるんだけど、でも、やっぱ、おデブさん。 飛行機で隣の席になったらイヤだな、って感じ。

でね、一緒に昼ご飯食べたわけですけど、まず、異常に食べるのが早い。こちらがまだ3分の1くらいしか食べてないのに、すでに食べ終わって、足りないからパンを追加しろとか店員に頼んでる。3人とも。 まさに「むしゃむしゃ食べる」とはこのことかって感じでさ。 むしゃむしゃ音がした(気がした)もん。

そして、脂っぽい物を好んで食べてるんですよね。ポークソーセージとか、ベーコンとかね。同僚と一緒にいつもこんな食生活してたら、そりゃ、太るわ。やっぱり 肥満には理由があると納得しましたよ。

よく、食生活に気をつけてるのに太る、と嘆いている人がいる。はては「水を飲んでも太る」とかね。で、世の中にはありとあらゆるダイエット法があふれてます。こないだ雑誌に載ってたのは、「No Diet Diet」(ダイエットしないダイエット)。もはや何のことだか分かんない。

もうね、非科学的なダイエット法に飛びつくのはいい加減止めた方がいいですよ。結局のところ、摂取した熱量と消費した熱量の差で体重の増減が決まるんですから、摂取する熱量を減らすか、消費する熱量を増やすしかない。その上で、摂取量を減らしても栄養が偏らないように、とか、一時で無理して運動して体調壊さないように、とか、合理的にアプローチしていかないとねぇ。

FedExの3人を見て改めて実感したのは、太るようなことをしてれば太る、という当たり前のことです。理由なく太ることはないんですよ、なんか稀な病気にでも罹患してない限り。

お互い、気をつけましょうね。

July 19, 2010

ダーバン。裏表のある街。

南アフリカ第3の都市、ダーバン。

インド洋に面して白い浜が続く美しいリゾート地というイメージがある反面、外務省の海外安全情報では、戦争が起きてるわけでもなければテロリストが潜んでるわけでもない平時の街なのに市街中心域に「十分注意」が出ていて、さらにその中心部のメインストリートは「地球の歩き方」でも「昼間でも徒歩で出歩いては行けない」との注意書きがあります。

そこをレンタカーで通り抜けてみました。確かにここじゃ車を降りたくない。というか、赤信号で止まるのも不安。ゴミが散らかった通りに、なにをやってるのか分からない人がたくさんうろうろしている。商店のウィンドウには鉄格子のシャッターがついてるし、ぎっしり黒人を乗せたミニバスが乱暴に走り回ってる。街を歩いている人も、ほぼ100%黒人。たとえ「地球の歩き方」の注意書きを読まずに入り込んでも、直感的にここはまずいぞと気付くと思うよ。スラム化してるとまでは言わないけれど、かなり荒廃しているのは感じられる。

中心部を抜けて、ダーバンの北部郊外方面に出ると、状況は一変。ゆったりとした敷地に芝生の緑も美しい住宅や店舗が並び、街路樹の植わった道路も整然としている。高台からは海が見渡せ、アメリカ西海岸のような異様に健全な雰囲気(って、カリフォルニアに行ったことないけど)。たぶん、白人とカラード(ダーバンはインド系住民が多い)が主な居住者だと想像されます。

かつてニューヨークも似たような状況にあったはず。ジュリアーニ市長の下でスラム地区の改善政策が行われて、見違えるように治安も改善したと聞きました(ニューヨークも行ったことないけど)。

振り返って、我が国にはそういう中心部が荒廃して郊外に健全な街が広がる、という都市はあまり聞かないですよね。東京を例にとっても、江東、江戸川、あるいは新宿の方にはガラの悪い地域もあるけれど、スラムってわけじゃないし、人が歩けないわけじゃないしね。

なぜ、中心街が荒廃した都市ができるのか。そういえば、今私が住んでいるハラレも当てはまるなんです状態ですけどね。

理由としてまず、物理的に開発可能な土地の面積の違いが考えられる。ダーバンにしても、ハラレにしても、都市部を広げていこうと思えば、どんどん郊外に広げていくことが可能。山地や海にぶちあたることもなく、割と平坦な(道を造れば車で走れる程度)の土地が延々と広がっているので、新市街をどんどん開発していける。荒廃しつつあるエリアから離れて、新天地を開拓することが比較的簡単。日本じゃ、そういう土地があるのって、北海道くらいじなんじゃないでしょうかね。

で、上記の理由もあって、日本では公共交通機関がよく整備されている。限られたスペースなので、その内側に鉄道や地下鉄を縦横に整備して、人々が車じゃなくても移動できる効率的な街ができる。だだっぴろく拡大した都市圏には、幹線の鉄道は整備できるだろうけど網の目のように鉄道網を張り巡らせることは経済的に割に合わない。

公共交通機関が便利なので、日本では中産階級、あるいは富裕層でも電車や地下鉄に乗る。車がステイタス、という面はあるし、一握りのVIPは電車には乗らないだろうけど、一般人が電車に乗ることになんの疑問もない。

他方で、ダーバンのような街だと、郊外に広がった美しい住宅地では車がないと動けない。公共交通機関っていっても、ミニバスくらいしかないし、ミニバスは不便。なので中産階級以上は車が主要な交通手段になる。結果として、車を持てず、公共交通機関に頼らざるを得ない層が、都市中心部に住むという構造にならざるを得ない。とすると、公共交通機関は貧しい層の乗り物ということになり、ますます中産階級の足は遠のく。豊かな人ほど郊外に逃げて行く。

そういえば、世界の有名な観光地では、往々にして高級なホテルほど郊外にあるよね。駅前や空港近くのホテルは良くてもビジネスのレベル。本格的な「ホテル」は郊外で車でしかアクセスできないところにあるのが普通。ま、余談ですけど。

そう、それで、経済格差によって住むエリアが確定され、貧しい層は都心部に、豊かな層は郊外に、となっていくわけですねぇ、たぶん。そして、車を主な交通手段とする中間層、富裕層のために道路はまずます整備されていく。現に南アフリカのハイウェイの整備状況はすばらしい。片側3車線、4車線、5車線の120km以上で飛ばせるハイウェイは快適。

都心部が荒廃した都市ができる理由には、物理的に開発可能な土地の広さ、それに伴う公共交通機関の整備状況、そして住民の経済格差が挙げられると思うのですが、もうひとつ、人種問題があることも無視できないと思われる。歴史的経緯から一般的に黒人が貧しい。いくらアパルトヘイトが終わったといっても、合法的な経済活動で収益を得ている白人のビジネスや土地を取り上げるわけにはいかないし、それこそ逆人種差別になっちゃう。植民地時代の遺産で食ってると言えばそうかもしれないけど、現実には南アフリカの土地を「購入して」入植し、しかるべき「投資をして」財を成した白人が少なくないので、「植民地主義の下で原住民の財産を搾取した」とは言い切れないし。
生まれながらの不平等は是正されるべき、として相続税の課税強化したところで、法人化されている財産には影響は現的的でしょうしね。

どうしても乗り越えられない人種間の壁は、社会の分断を促進する方に働くことはあっても、融合させる方に働くことは、まあないでしょう。結果、固定化した貧困層には黒人が多く、荒廃した都市中心部に住み、ますます白人やカラードの中産階級から蔑視され、取り残され、都市中心部と郊外の分離が進んでしまう。

*   *   *

ニューヨークで成功したと言われる都市再開発。
ただ古い建築を取り壊して道路やインフラを整えて形を繕ってみても、格差問題を解決しない限りは似たような荒廃地域が別のところにできるだけな気がする。税制や社会福祉政策、南アフリカではさらに積極的差別是正策(Affirmative Action、南アではBlack Empowerment Act)も必要でしょう。それが都市の治安改善、行政の決まり文句みたいですけど「住み良い街づくり」に繋がっていくんでしょうね。

ダーバンの郊外は美しいです。海も近いし、緑も映える。でも、背後にあまりにも暗い都市の分断状況があることを思うと、単純に「すばらしい街だね」って手放しで歓迎できないです。

格差問題が注目を集める日本にも、こんな風に分断された都市ができるのかな。またあるいは、日本以上に格差が広がっている中国沿岸部の都市はどんな具合なんでしょう?

July 16, 2010

旅もネットが普及して変わったよね。

久しぶりに一人旅に出ております。

まあ、アフリカとか中東とかで働いていると帰省するだけで結構な旅程だし、乗り継ぎが長時間だったりすると街にも出るので、一人旅っぽいことをすることは多いんですけど、あらためて予定を立てて飛行機も予約して出かけた一人旅は、何年ぶりでしょうかねぇ。あ、2008年末から2009年正月にかけてのタンザニアが最後か。

今回の旅先は、Umkomaasというところです。南アフリカのKwaZulu-Natal州の小さな町。州で一番大きな街・ダーバンから車で小一時間です。メインのアクティビティはスキューバ・ダイブ。なんでも、サメがたくさん見れるんだそうで。

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そういえば、前に一人で旅をしたときは、ネットがここまでユビキタスたじゃなかったですよ。宿をとったら、どっかネットカフェがないか探して歩いた気がする。前回のタンザニアのときも、本土のセレンゲティやンゴロンゴロではケータイからネットにアクセスできたけど、ザンジバルに渡ったら、たしかケータイのパケット通信はできなかった。なんか工事中の建物の一角にあったネットカフェに行った覚えがある。

ところが今回は、MacBook Proを持っての旅行です。まあ、飛行機を降りたらレンタカーを借りて宿まで行く手はずにしてたので、荷物を軽くしなきゃというインセンティブが働かなかったというのもあるんですけどね。で、予想通り、宿には無線LANがあった。なのでこうしてブログも書けてるわけです。

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一人旅でも、特に寂しいという思いをしたことはほとんどないように思う。アジアだと一人旅の旅行者多いので、旅程が合うところまでは一緒に行動したりするし、宿では同宿の人たちと雑談して過ごすし。

でも、一人旅だと自分に向き合う時間が増えるのは事実。寂しくしてる訳じゃなくて、日常から離れて、仕事に追われない時間もたっぶりできて、自分の生活圏ではない世界を外から眺めて、いろんなことを考える。日々の暮らしは、目先のことに追われて(というか、目先のことを言い訳にして)「生活」で隅々まで埋め尽くされがちになるけれど、旅先では一旦日常から離れて「人生」を見つめたりする。

ところが、ネットが普及し始めた当初、あれは2000年前後でしたか、カンボジア旅行中にネットカフェに入ってメールをチェックしたら、仕事関係のメールが入ってて、会社に国際電話をした覚えがある。ICTの普及によってどこでも仕事ができるとか、『SOHO」とかいう言葉がもてはやされたりしてたんですけど、その結果がアンコールワット見物後に会社に電話かよ、って思った。

ICTは日常が旅先に進出することも可能にするんですよね。旅に出て、日常から離れてるはずなのに、なかなか日常から逃げられなくなってる。それでもまあ、今、この宿にはテレビがないので、日常の喧噪は聞こえないですけどね。

かつて一人旅のときは、スケッチブックにいろいろと書き綴った。そのとき見たもの、食べたもの、考えたこと。それは当時の自分を振り返る心象のアルバムのようで、今でも大切に持ってます。それがね、ICTが普及すると(要は旅先でもネットがユビキタスになると)、自分一人しか見れないスケッチブックではなくて、みんなと共有できる空間に書き出すことができる。きれいなものを、みんなに「きれいだよ」って伝えることができる。そう、今、私がこうやってブログを書いているように。

たしかに、それもすばらしいことだと思う。世界旅行をしながらブログを更新したり、エベレストに登りならネットで中継したりして、多くの人を力づけたり、楽しませたりしている人もいる。かつての「旅」は個人的な経験だったけど、その経験をみんなで共有し、新たな価値を紡ぎ出されてるよね。

ICT、ネットによって旅先を日常から切り離しにくくなった。他方、だれかさんの旅の経験がいろんな形でたくさんの人に影響を与えることも可能になった。いい、わるい、は別にして、変わったよね。


でも、今一度、ネットがなかった時代のような一人旅をしてみたいとも思う。昔を懐かしむとは、私も年を取ったものだとは思いますけどね。

July 13, 2010

ソーシャルメディアが市民権を得るまでもう一息かな。

参院選の結果は賢い人たちが様々に評価し分析して論評してらっしゃるので、日本の情報に乏しい遠隔地に住んでる私がわざわざ何か書く必要もないような気がしたんですが、一点だけ、備忘録を兼ねて記録しておきたいことが。

今回の選挙は結局ネット上での選挙活動を一部解禁する改正公職選挙法の成立を待たずに実施されてしまったので、ネット上での本格的な政策論議は何も行われなかったわけですけど、それでも、従来からあるマスメディアだけではなく、ソーシャルメディアが世論形成に一定の役割を持ち始める兆候が明らかになったように思いますよ。私が、こんな変な外国にいて日本のテレビはおろか、新聞さえロクに見れないという環境にあることを差し引いても、ネット上での議論の持つ意味が大きくなってきたって感じる。

大手マスコミが、政治家の揚げ足取りに終始する底の浅い記事と、マッチポンプじゃないかって感じの政党支持率調査の結果で覆われるなか、ネット上ではいろんな論客が多様な角度から政治/政策を論じていたよね。ネット嫌いのマスコミさんたちは、ネット上の意見は匿名性が高くで信用できないと批判するけど、たとえ実名じゃなくても確かな視点とクールな頭を持った人の論説、意見は説得力を持って伝わってくるし、むしろ中立を装って、一人称を使わず、誰か他の人の発言を引用したり、政党支持率調査の結果を加工したり、あるいは単に受身形の文章で「〜が望まれる」とか「〜が批判されよう」といった無責任な書き方をして、社会の良識を代表してるようなエラそうな(でも薄っぺらい)論説をぶつマスコミの方がよほど信頼できない。

どうがんばったって、一次情報に接することができない人の方が大多数なのだから、「伝える」という仕事はなくならないはずなんだけど、それが大本営発表的なマスメディアだけでなく、ソーシャルメディアからの伝達が一般の人々にもアクセス可能になったのは、大きな進歩だよね。

日本におけるインターネットの普及率がどのくらいになったのか知らないけれど、もはやネットの世界はマスコミさんが言うような2ちゃんねるとオタばっかりの世界じゃなくなったわけでさ、マスコミによる一方通行のコミュニケーションじゃない、広大な言論空間として機能し始めたって感じじゃないですか?


というような、まとまりののないことをぼんやりと考えていたら、こんな記事が。
「参院選、どこに投票した? ”ネット出口調査”の傾向は」
「Yahoo! みんなの政治」と「ニコニコ動画」がネット上で参院選でどこに投票したかアンケート調査を行ったという話なんだけど、まだちょっと実際の参院選の結果とズレているところがある。ネット出口調査では、実際の結果よりも自民党が支持を得ている傾向があるとか、みんなの党の支持が多いとか。

まだ、ネットに親和的な層と一般有権者の間には差がある、ということでしょうが、やがてその差も小さくなっていくんですかねぇ。

July 10, 2010

最近、支持率調査っていかがわしくないですか?

参議院議員選挙が近づいていますね、という件で引き続き。

海外にいるので、毎日拡声器で名前を連呼する煩わしい選挙カーなんかとは無縁だし、日本のテレビ番組もほとんど見れないので(NHKワールドを時々見てるだけ)選挙の雰囲気は今ひとつないのですが、ネットのニュースを見てて思うのは、「報道機関って、こんなに始終世論調査をやってたっけ?」ってことなんですけど。小泉政権退陣後くらいからなんですかね、なんだか毎日のようにどっかで世論調査っていうか、政党支持率調査をやってる。

で、○○政権の支持率がまた下がったまた下がったと嘆いてみせる。それから、支持率が下がったのを見て、「〜への批判が影響していると思われる。」とか、したり顔な論評を書いてみせる。

でもね、このところその支持率調査の回数が多過ぎるというものあるんですけど、なんだか以前よりもマスコミのやる支持率調査、世論調査の説得力がなくなっていると思うのは、私だけ?

その1。
「無作為に電話をかけて意見を聞くRDD法で調査を行っています。有効回答率は65%。」っていうのが典型的な感じだけど、これって大丈夫なわけ? まず、「電話をかけたときに家にいる人」っていうところでバイアスがかかってるような気がしない?昼間電話してるのか、夜電話しているのか知らないですけど、有権者全体っていう母集団を正しく代表させるサンプルになってるのだろうか。もし昼間電話しているんだとしたら、会社員はほとんど電話にでないしさ。
 それから、有効回答率が6割、7割っていうのも、いいわけ?回答を拒否している人は、なんらかの理由があって回答してなくて、そこに何か有意なことが潜んでるんじゃないの?

その2。
マスコミが時の政権をけちょんけちょんに貶しておいて、そのマスコミが支持率調査をやるって、変じゃない?マスコミに批判的精神は必要だけど、いまの大手マスコミはあらゆる局面で揚げ足をとり、くだらないことを責め、「どうです?みなさん、○○総理はこんなにダメなんですよ。」って宣伝しまくるのが仕事になってるので、腹一杯そんな宣伝流しておいて、それから支持率調査をやったら、メディアリテラシーのあまり高くない層は「そうだそうだ!」って「支持しない」って回答するんじゃない?
「メディアリテラシーのあまり高くない層」ってやんわりと表現したけど、要はよくものを考えていないっていうか、内田樹先生の言葉をお借りすれば、「公民的成熟」が足りない層、っていう意味で使ったんだけど、マスコミの世論調査って、この層をターゲットにして調査を行ってないかって懸念がある。実はそういう層ってかなり厚いよ。mixiのニュースって、ニュースに会員がコメントを付けられるようになってますけど、ずらって並んでるあそこのコメントを見てみたら、反論する気にもならない意見、ノイズが山ほどぶら下がっててるじゃないですか。ああいう「公民的成熟」の足りない層にマスコミが「ほら、ひどいでしょう?」って訴えて、世論調査をやってるんじゃないの?マッチポンプっぽい話だけど。

その3。
世代間の対立に話を持って行きたくないので書くのは気が引けるんだけど、高度成長期に青年期壮年期を過ごしてきて人生に迷いが少なかった世代、がんばって努力すれば報われる、きっと明日は良くなる、って実際に良くなってた時代に第一線だった世代・・・団塊の世代とその上の世代・・・の意見がことさら大きく取り上げられてない?というのは、旧来のマスコミって、彼らのマスコミでしょ?それより下の世代は、旧来のマスコミも情報ソースのひとつだけど、その存在が相対化されてると思う。ソーシャルメディア、ネット論壇の情報に接してない層の「支持率調査」ないのって、疑っちゃう。


と、ぐだぐだ書いてみたけど、毎日毎日やられる報道機関の支持率調査、あれ見てると、なんか番組制作者側、報道側の人が、なんとかして政府、政権の足を引っ張って、支持率が下がれば手柄のように喜んで、辞任や罷免となれば「してやったり」って得意顔で自慢してるような様子が目に浮かぶんですけど。違うのかな?私の思い込み?

July 08, 2010

議員定数が少ないほどエラいわけじゃないよ。

参議院選挙が間近ですね。

いつものように、マニフェストに議員定数の削減を掲げている党もあるようです。

これね、いつも思うんですけど、ポーズだけっていうか、衆愚の歓心を買おうとしているだけって感じで、どうも面白くありません。日本の国力がかつてほどではなくなって、30代の会社員の年収の最頻値が10年前に比べて200万円くらい下がっているという昨今、閉塞感や徒労感に苛まれる庶民に訴えるために、甘い汁を吸っているように見えるところを叩くことで人気を稼ぐ作戦を取る政党が、まずは公務員叩きをやるんだけど、それとバランスをとるために、自分たちも痛みを分かち合っているのですよ、っていうポーズのためだけに議員定数の削減を公約に掲げてる。そんな気がする。

でもさ、議員を例えば100人減らしたとして、いくら節約になるわけ?議員歳費、政策調査費、秘書、事務所…っていう変動費は削れるだろうけど、国会の営繕費や運営経費がそう下がるわけでもなし、議員削減一人につき、せいぜい数千万円の節約になるだけじゃないの?政府予算だけで100兆円近く、特別会計はそれ以上の規模があるなかで、100人議員を削減して数十億円節約したって大した金額じゃない。100億円としても、政府予算の0.1%。

いや、それでも節約できるならした方がいい。それはいいに決まってる。でも、気になるのは、その0.1%の節約を根拠なく、気分でやろうとしていることなんですよね。「ほら、みなさんの大嫌いな議員の数をこんなに削ってますよ、だから文句は言わないでね」みたいな。

議院内閣制の下、1億2千万の国民の代表で議会を開くというとき、いったい何人議員がいれば、過不足なく公正に国民の意思を届けることができるのか。そういう観点から議員定数の妥当性を評価してほしい。

たとえばさ、参議院選挙の一票の格差は最大5倍もあるわけですよ。これは、参院の242人の定数をまず各県に定数をひとつずつ割り振って、残りを有権者の多いところから順に割り振っていく、っていうやり方をやってたんじゃ、絶対解決しない。だってさ、島根県や鳥取県よりも世田谷区の方が人口多いんだよ。東京は1000万以上いて、島根県あたりは50万人とかしかない。今の定数でいわゆる一票の格差を正そうと思えば、ちゃんと計算してないけど、たぶん、山陰地方で1、東京には20、というような割り振りにしないといけない。国会議員が一人もいない県、というのを認めなくちゃいけない。まあ、道州制を導入して「県」という行政区分をなくすのであれば、それはそれでもいいんでしょうけど。

そういうのが困る、県選出の国会議員がいないという状況では地域の声が国政に届くかどうか不安だし、公正でないと判断するのであれば、議員定数はむしろ増やす必要があるわけです。

議員定数の話って、こんな具合にいかに国民の声を公正に国政に届けるか、という観点で決めてほしい。定数300が500になった、といったって、そんなの日本の経済規模からすれば誤差の範囲ですよ。


お気づきだと思いますが、公正に国民の声を国政の場に届けるための最も基本的な条件は、一票の格差が1倍であること、だと思います。若干の誤差は仕方ないとしても、小数点以下四捨五入で1になるくらいじゃないとおかしい思うよ。一票の格差を1倍にして、多様な国民の意見を国政に公正に届けること。そのためにはどんな選挙制度で、議員定数をいくつにすべきか、そういう観点で議論してほしいんですよね。

「我が党は議員定数を400に減らします。」「うちの党は350に減らすとマニフェストに書いております。」

少ない方がエラいという根拠はなにもない。このところの議員定数削減の議論は、うっぷんのたまった国民におもねるだけで、なんの思想もないように感じられるのが、どうもイヤなのです。

July 03, 2010

誰が新聞を読んでいるのか。

当地でも、何日遅れかの日本の新聞(国際・衛星版)が買えるのですが、BBCだのCNNだのがあるし、事務所だとかろうじてNHKも見れるし、あとはネットで事足りる、ってことであんまり日本の新聞は見てませんでした。

が、こないだ、某読売新聞もこの地域で入手できるようになりました、って見本が届いていたので、久しぶりに見たんですよ。

そしたら、すごいんだよね、その紙上に出ている広告が。久しぶりに見て、びっくりした。片っ端から拾ってみると;

「アパート経営しませんか?」
「高畑淳子のゲルマニウム・コロコロ美容器具」
「尿もれが臭わない・目立たないパンツの通販」
「レディース・アートネイチャー」
「四季草花図掛け軸の通販」
「ウォーキング用の滑りにくい靴『楽足』」
「社団法人日本脳卒中協会」
「聞きづらい声もキャッチ・オムロンのイヤメイト」
「にんにく卵黄」
「強力わかもと」
「永く暮らそう『那須高原平和郷分譲地』暮らし安全サポート付」
「山田養蜂場のローヤルゼリー」
「マルウェイ書房『自分の棺はかつげない』」
「一万年堂出版『歎異抄をひらく』」

・・・

見事に中高年・老年向け広告ばっかりだよ。ほんと、お見事。だれが新聞を読んでいるのか、 一目瞭然です。新聞がエラそうに講釈たれて、「批判」という名のちっとも建設的でない文句ばっかり流してるのも、この世代の耳には心地よいんでしょうな。

しかし、新聞がヤバいとは聞いていましたが、これは相当マズいいよね。次の中高年・老年世代(今の青年・壮年世代)が新たな新聞購読層になる見込みがあるとは思えないしさ、ジリ貧になるのは素人目にも明らかじゃん。

July 02, 2010

幸運は幸運なんですが。




NECが人気沸騰の人工衛星「はやぶさ」のNEC特製プラモデルを300名様に抽選でプレゼント、という企画をネット上でやってて、 お、いいねぇって思って応募したんだけどね。

で、この「NEC特製」なんですけど、中身はアオシマ玩具の「はやぶさ」のプラモデルで、パッケージがNEC向けに カスタマイズされてて非売品扱いとなってるものらしい。

なんだ、アオシマのやつでよければ買えるんじゃん、中身は同じだしーって、amazonでアオシマの「はやぶさ」を即注文。今頃実家に届いてるはずです。

ネット上の情報では、アオシマの「はやぶさ」は 1万個も出荷してるって話だよ。私のamazonでの注文も、一回入荷が遅れるというお知らせが来たし、かなりの人気商品になってる模様。

*   *   *

今日、メールをチェックしたら、「件名:【当選通知】はやぶさプラモデルプレゼント」 。

・・・わ、当たったらしい。


ということで、実家に「はやぶさ」が2個届きます。

June 29, 2010

ジンバブエとロールスロイス

ジンバブエって、つい1年半くらいまでは日常生活でも「兆」の位が必要なほどのハイパーインフレを起こして、最終的に経済が崩壊した国です。その後、自国通貨を放棄して経済を米ドルと南アフリカ・ランドで回すことにしてなんとか小康状態を取り戻し、このところは経済も市民生活も一応の落ち着きは取り戻した・・・というものの、産業は再生できないほど痛んでいて国内にろくなビジネスはないんです。

なのに、こないだハラレのレストランでディナーをして駐車場に出てきてみたら、超巨大なロールスロイスが停まってるんですよ。「TopGear」で見たのと同じカラーリングの、おそらくは最新型。そして、その向こうに、色違いでコンバーチブルのやつがさらにもう一台!

なぜそういうことが可能なのか、想像はつく。が、途中までその理由を書いてみたんだけど、でも、ここでそれを公開しちゃうのは、たとえ日本語で書いたとしてもヤバい気がするので、やめときます。

ひとつコメントするとすれば、これが国が発展しない理由を象徴してるよな、っていうところです。詳しい話をお聞きになりたければ、個人的にメールください。

June 27, 2010

「いい国に生まれたのだ」っていう話。

佐藤尚之さんのブログに「いい国に生まれたのだ」ということっていうエントリがあがっておりまして、GPI(世界平和指数)で日本が3位だったことを取り上げられてます。ちなみ、私が今いる個に国は、GPI135位/149国で、惨憺たる成績。この国の成績が悪いということで、このGPIが発表されたというニュースが私の関心の網に引っかかっていたんですけど、佐藤さんは「日本はいい国だよね」という視点でこのニュースを拾ってらっしゃいました。



そうだよねー。明日は真っ暗闇、みたいな雰囲気の報道ばっかりだけど、日本はどんだけ恵まれているか、GPI135位の国にいなくても実感できるはずですわ。それで、先のエントリに対して、佐藤さんに「そうですよね」っていう内容のフィードバックのメールをお送りしたところ、そのメールがほとんどそのまま佐藤さんのブログに転載されてますので、ちょっとリンクしておきます。

こんな風に、普通だったら絶対にお近付きになれないような人ともコミュニケーションが取れるっていうなんて、いい時代になりました。

G8サミットの首脳宣言の報道がおかしい。

カナダ・ムスコカのG8サミットが首脳宣言を発表して閉幕したんですけどね。

これが首脳宣言の全文。まあ、英語読むの大変なので、私も全部読んだわけじゃないですけど、最初に大きく開発の問題が取り上げられて、MDGs、母子保健、アフリカなどに焦点を当ててる。

次が環境、気候変動関係。

その次に貿易、投資。

最後が国際平和、安全保障関連。

宣言は事前の事務方の準備を経て、最後に首脳に議論が委ねられて発表されるわけですけど、実際の議論で一番時間が費やされたのは、このところのユーロ危機もあって、経済問題だったそうです。

ところが。

これが、東京新聞のG8首脳宣言の要旨の報道
テーマの順番が入れ替えられており、分量も違う。 軍縮→北朝鮮→イラン→アフガン→世界経済→開発・アフリカ→環境の順になってて、前段の方に力が入ってる。

朝日にいたっては、こんな感じ。
母子保健については他の記事で若干触れてはいるものの、最後に出されたG8首脳宣言の総括記事として、これ。北朝鮮問題とイラン問題にばっかり触れて、最後にちょろっと経済。

*   *   *

北朝鮮やイランの問題が重要であることは否定しないよ。でもね、世界は何に関心を持って、取り組むべきと考えているのか、世界に君臨するともいえる「G8」はどんな責任を負っているのか、日本の報道はマトモに伝えていないのです。勝手に自己の関心事項だけを拾って報道している。 すでに報道機関としての役割を果たしているとは言えないんじゃないの? 

実際にG8に出ている、大手NGO、Oxfam(本部は英国)の論客も指摘してらっしゃいますね、ちょっとマズいでしょうこれはって。

再開。

ブログ、こそっと再開してみる。

しかし、これほど投稿に間隔のあいたブログってないんじゃないか。ブログを開始したのが2002年8月、最後の投稿が2003年4月、今は2010年6月。

当時、まだブログという言葉さえが目新しくて、国内で書いている人はほとんどいなかったと思う。そのころブログがあったことを覚えているのは、ネオテニーの伊藤穰一氏のものくらい。あ、今でも書いてらっしゃる

で、当時日本国内でブログをホストしているサービスがなくて、海外の「Blogger」っていうサービスを使って始めたわけです。日本語非対応だったんですけど、日本語で投稿すれば日本語で表示されるのでそれでいいかと。

ところが、先方サーバーで何か設定変更されたのか、ある日突然、すべて日本語が文字化けしてどうしようもなくなってしまいまして。新たに投稿しても、化けてしまう。もともと日本語非対応のサービスだったので、文句を言うこともできず、そのまま放置プレイ。

その後、ブログは一斉を風靡し、SNSが興隆し、私もご多分に漏れずmixiやfacebookにアカウントを持つことになっていったのです。しかしですね、たとえmixiが2000万アカウントを超えたと聞いても、やっぱり閉鎖された空間であることが感じさせられる。まあね、自分の身の回りのことをたらたら書いてる日記を大勢に見てもらう必要もないので、それはそれでいいんですけど、そんなところでこないだ読んだのが佐々木俊尚氏の「ネットがあれば履歴書はいらない」

このご時世、「自分」というもののありようをネットの上にも置いておかないと仕事にならないよね、というのはぼんやりと感じていたんですけど、ずばりそれを指摘した本でした。mixiに時々書いてる社会ネタの日記も、mixiの中に置いておくだけじゃマスターベーションの域を出ない。やっぱりブログくらいはないと発信力が持てない。幸い、ここ数ヶ月で私の今住んでいるこんなアフリカくんだりでもネットの接続が大分安定するようになってきたので、ブログ再開の敷居も下がってきたし。

で、久しぶりに「Blogger」をチェックしてみたら、昔の投稿の文字化けは救えないけれど、日本語対応になってた。(で、「Blogger」はGoogleに買収されてた。)

他方で、今やってる仕事は守秘義務がかかったり、「職務上知り得たことはむやみに公表しない。」というお約束もあったりで、情報発信には気を使うことも多いんですけど、とりあえず再開する環境は整っているのが分かったので、よろよろと投稿を再開してみる次第です。